20250105東淀川教会礼拝宣教要旨 「安息・休みより始めよ」マラキ書 マルコ福音書1章

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本日の聖書箇所
マラキ書3章1節
私は使者を遣わす。彼は私の前に道を整える。

マルコによる福音書1章 1〜8節
神の子イエス・キリストの福音の初め。(1)
預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、私はあなたより先に使者を遣わす。彼はあなたの道を整える。(2) 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を備えよ その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、(3)
洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。(4)
そこで、ユダヤの全地方とエルサレムの全住民は、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた。(5)
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、ばったと野蜜を食べていた。(6)
彼はこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。(7)
私は水であなたがたに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」(8)

宣教要旨「安息・休みより始めよ」
 2025年の新年礼拝です。21世紀の四半世紀。
方丈記の書き出し 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみにうかぶうたかた(泡沫)はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし 世の中にある人とすみかと、またかくの如し」。写真は流れ行く河の一端、その一瞬を一枚の絵として切り取り、記憶に留めることはできますが、河の流れそのものを見ることはできません。己自身も一瞬の「うたかた」であり、大河の一滴であることを認めざるを得ませんが、今この瞬間の「生かされ方」に思いを馳せることはできます。

 つい半世紀頃まで、この国の正月は、仕事や義務などから解放され、年末に用意したおせち料理やら餅やらを家族や親しい人と食べ、酒を飲み、地域の神々を拝み、あるいは寝正月を過ごしました。三が日の基本は「なにもしない」が基本です。この一年のリセットを「なにもしない」から始めるスタイルは、イスラエル民族の「安息日」や「過越の祭り」に通じるものを感じます。重荷を負い、生き生かされ、流れてきた時に「何もしない」「泡として浮かぶ」この一瞬は「祈りの一息」でしょう。

 イエスが2千年前に地上に現れてくださった。その働きは、世のどんじりに置かれた“傷ついた葦を折らず くすぶる灯心の火を消さず 忠実に公正をもたらす”(イザヤ書 42章 3節) 。「神の子ら」の栄光を取り戻す働きでした。イエスの前にも、イエスの後にも、イエスの働きに招かれている人々は今も続いていると信じます。

 目まぐるしい“混沌”と、振り回される日々は明日も続くのでしょうが、時の区切りを、できれば「安息」から始めたい、隣人の安息を守りたいと願います。         -

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