20250223 東淀川教会礼拝 宣教要旨「汚れ仕事請負者へのヘイト」マタイ9:9 マタイ17:24−27 ルカ19:1−7 使徒行伝1:6

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本日の聖書箇所

マタイによる福音書9章 9節
イエスは、そこから進んで行き、マタイと言う人が収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

マタイによる福音書 17章 24-27節
一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたがたの先生は神殿税を納めないのか」と言った。(24)
ペトロは「納めます」と言った。家に入ると、イエスのほうから言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物を誰から取り立てるのか。自分の子どもたちからか、それともほかの人々からか。」(25)
ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子どもたちは納めなくてよいわけだ。(26)
しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣り針を垂れなさい。そして最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が見つかる。それを取って、私とあなたの分として納めなさい。」(27)

ルカによる福音書19章 1-7節
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。(1)
そこに、ザアカイと言う人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。(2)
イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。(3)
それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。(4)
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」(5)
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。(6)
これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」(7)

使徒言行録1章 6節
さて、使徒たちは集まっていたとき、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

宣教要旨「汚れ仕事請負者へのヘイト」

ユダヤ人は従来からの収入の十分の一をエルサレムの神殿に収める神殿税(現金1/2シケル=2デナリ)
の他に、ローマ帝国への税金、すなわち一人ずつ毎年収める人頭税(年2ドラクメ=2デナリ)
やローマの街道の通行税などをローマ帝国に納めていました。ローマ帝国への税金は、ユダヤ人の「徴税人」が徴収していました。多くの民衆は、ユダヤの神殿税とローマ帝国の人頭税他を合わせると、収入の十分の三とか四を税金として納めなければならず、苦しい生活を強いられていました。

ファリサイ派の中から政治運動に傾倒して、正義のためなら武力行使を容認していた「熱心党」は、反ローマ帝国運動の手段として納税拒否運動を展開していたようです。熱心党とイエスは同じガリラヤ地方で、同じ名称で全く内容が異なる「神の国運動」を展開していたのです。ローマ帝国への納税拒否をすれば、熱心党と同じテロリストとして攻撃される危険があったわけです。

収税所に座っていた徴税人マタイもですが、イエスはエリコの徴税人で金持ちのザアカイにも直接声をかけて、仲間に加わるよう呼びかけています。税はエルサレム神殿側からと支配国ローマ側双方から徴収されていて、ふたりともローマ側の徴税人(人頭税、所得税など)としての権利を買って手に入れていた人です。彼らはユダヤ人でありながらローマ側の税を取り立てる者として軽蔑・憎悪の対象でした。ユダヤはBC63年からローマのシリア総督のもとに置かれ、AD6年からはローマ直属の管区に置かれましたが、徴税業務(憎まれ役)はヘロデ王やユダヤ人を利用したので、AD70年にエルサレム神殿が崩壊するまで、この国で最も軽蔑されていたのは取税人たちでした。神殿祭司やファリサイ派、サドカイ派、律法学者など、神殿側の人々は“ユダ王国、イスラエル王国の再興”を心の底から願っており、独立を求めてローマへの反乱が起これば、まっさきに同じユダヤ人から殺される最下層の人たちでした。ザアカイが金持ちだったのは、ユダヤ人から軽蔑され嫌がらせを受ける取税人仲間を組織化していたからだと思われます。

 彼らは職を求めて、宗主国が募集した有料の徴税係に応募し、多少の裁量権を含むローマへの納税を徴収する権利を買っただけで、不当にユダヤの人々を苦しめるような行いをしているわけではありません。今日的な感覚からすれば、ローマに取り入ったヘロデ大王か、人々から神殿税を納めさせている神殿側が、ローマからの徴収も請け負うのがスジだと思います。取税人への憎悪・ヘイトは、失われたプライドの裏返しでもあります。

 神殿税についての問いに、「王は自分の子どもたちから徴税したり、貢ぎ物を要求するか?」と問いかけ、「すべての神の子たちは父なる神から義務として徴税されることはない」と語ります。ここに、“すべての人は神の子であり、父なる神の慈しみのもとにある”というイエスの人間理解が表れています。

 ローマの属国であり軍事力で支配され、支配者からの人頭税は、この地に留まる以上やむを得ないが、その苦しみのうえに、更に信仰を利用して神殿税や捧げ物を要求している神殿側へのイエスの怒りが感じられます。
現代社会における他民族・他文化へのヘイト、流入する難民に対するヘイト、社会的弱者へのヘイトなどがSNSやネット社会の中で拡散、肥大化しています。ここにも「失われたプライドの裏返し」としてのヘイトが感じられます。

 ローマへの徴税を請け負っている取税人を“罪人”、“汚れた人々”と定め、一緒に飯を食うことすら禁止している人々に対し、「ここに義はない」とイエスは語っていると思われます。だからこそ、イエスは取税人を積極的に招いたのでしょう。

「エルサレムの通りを行き巡り見渡して知るがよい。町の広場で探せ。ひとりでも見つかるだろうか。公正を行う者、真実を探求する者が。もしいるなら、私はエルサレムを赦そう。」エレミヤ書5章1節 「義人はどこにもいない」とのエレミヤのメッセージが心に浮かびます。

 

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