20190505 東淀川教会礼拝
旧約聖書 アモス書8章4-8節
これを聞け。貧しい者を踏みつけ、地の苦しむ者を滅ぼそうとする者たちよ。あなたがたは言う。「新月祭はいつ終わるのか。穀物を売りに出したいものだ。安息日はいつ終わるのか。。麦を売りに出したいものだ。エファ升を小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使って誤魔化し、弱い者を金で、貧しい者を履物一足分の値で買い取ろう。またくず麦を売ろう。」主はヤコブの誇りにかけて誓われた。 「私は彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない。」
新約聖書 マルコ福音書3章1-6節
イエスは会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人を癒されるかどうか、窺っていた。イエスは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。人々にむかって、「安息日に律法で許されているのは善を行うことか。あくを行うことか。命を救うことか。命を殺すことか。」彼らは黙っていた。
イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを悲しみ、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。
パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。
聖書から聴く 主題「ばちあたりが!」
アモスは農民だった。金を持たない人だった。お金(貨幣経済)を嫌っていた。お金の力を恐れていた。自然相手に食べ物を得て、必要なものは自分で作って、手に入れるしかないものは物々交換で手に入れていた。
お金をたくさん手に入れることは、お金を持てない貧しい人を作り出すことだった。ことば巧みに、より安いものを高く売るのが金儲けのコツだった。周囲の人は金儲けに利用すべき人たちだった。「金さえあればなんでも手に入るし、金で人を自分の都合よく利用したり奴隷のように人を買うこともできた。貧富の差が広がるからこそ、お金に執着する人が金儲けできる。みんなが等しくお金によって豊かになることはぜったいあり得ないことだった。
ましてや、金を稼げない者、体や脳の機能にハンディを背負っているもの、老いや病気で働いてお金を稼ぐことができない人々を見下して、貧しい者たちを見下すような傲慢が激しくなっていた。
富める者と貧しい者との格差は露骨に激しかった。傲慢な心、債権者として債務者をどんどん増やしている経済活動に神の怒りを伝えるアモスだった。
弱い者、貧しい者に何ら手を貸すこともなく、指一本貸そうともしない、金持ちたちに対するイエスの怒りは激しかった。「安息日などの規則を守れ、と、貧しい者たち命令する奴らに対するイエスの怒りは、逆に「弱っているもの、貧しい者をこそ「中央」に立たせ、曲がった手や足を「伸ばせ」と命令するのがイエスの癒しであった。
世の中の下へ人を押し込める働きに対し、さらに深いところに降りて、どんぞこから人々を支え癒し続けるイエスの働きは主なる神にイエスが命じられた、休む間もない「働き」と戦いだった。
○先週の出来事(気になるニュース)
八島に住む人々の平安と平和を祈ることを仕事とする祈祷師(天皇)がいてもいいし、それが血縁で受け継がれていくという神話を信じる人々が宗教集団をつくるのも「信仰の自由」なのだろう。ただ、その神話をすべての人々や、そうは思わない人々に強いて、祈祷師を崇拝させることは明らかな過ちであり、明らかな罪である。