190728 東淀川教会主日礼拝 詩編68 マルコ6章 宣教題「パンと医師を求める人々」牧仕・金田恆孝
旧約聖書 詩篇68篇2-9節
68:2 神は立ち上がり、敵を散らされる。神を憎む者は
御前から逃げ去る。
68:3 煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶ける。神に
逆らう者は必ず御前に滅び去る。
68:4 神に従う人は誇らかに喜び祝い/
御前に喜び祝って楽しむ。
68:5 神に向かって歌え、御名をほめ歌え。雲を駆って
進む方に道を備えよ。その名を主と呼ぶ方の御前に喜び勇め。
68:6 神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり/
やもめの訴えを取り上げてくださる。
68:7 神は孤独な人に身を寄せる家を与え/捕われ人を
導き出して清い所に住ませてくださる。
背く者は焼けつく地に住まねばならない。
68:8 神よ、あなたが民を導き出し/荒れ果てた地を
行進されたとき
68:9 地は震え、天は雨を滴らせた/シナイにいます神の
御前に/神、イスラエルの神の御前に。
新約聖書 マルコ福音書6章53-56節
6:53彼らは海を渡り、ゲネサレの地に着いて舟をつないだ。
6:54そして舟からあがると、人々はすぐイエスと知って、
6:55その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。
6:56そして、村でも町でも部落でも、イエスがはいって行かれる所では、病人たちをその広場におき、せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いした。そしてさわった者は皆いやされた。
聖書から聴く 主題「パンと医者を求める人々」
ガリラヤ湖東岸から西岸にイエスたちが帰ってきたニュースは町々村々隅々に駆け巡った。イエスたちがどう動くのか、どこを訪ねるのかの情報を集め、要所要所の広場などに、治療してほしい病人たちを戸板に乗せて並べ始めた。
しかもイエスとともに働く仲間たちを頼ってはいなかった。ただイエスのみに触りたくて、触ってほしくて、病人や怪我人たちを並べていった。
ヨハネによる福音書の6章26節を並行して読めば、人々はパンと魚の奇跡を知って、“尽きぬパン”それ自体を今、求めているのであり、戸板で運ばれ、屋根に穴を開けて吊り下ろした病人が癒やされた奇跡を通して、何でも治してくれるスーパードクター・イエスを求めているのであり、だから、病人たちを戸板に載せて広場に並べ、イエスに“丸投げ”し続けた。
イエスとともに行動していた仲間たちも、イエスに依存し、イエスに責任を委ねながら、同労者としてではなく、弟子という立場に甘んじて、人々がイエスのみに依存して、尽きぬパン、スーパードクターの働きを求めるがままにし、それぞれが直接立ち上がられた神に応答し、自己責任で働くことをなかなかしなかったと思われます。
それは現代のキリスト教徒たちも同じなのでしょう。イエスの取り次ぎによって、自分自身が神の前に立ち、祈り(対話と応答)を続けるのではなく、イエスにすべてを丸投げして、イエスに更なる十字架を更に負わせ、自己中心な依存だけを繰り返しているのが「正しい信仰」だと誇っているわたしたちの姿があると思われる。
○先週の出来事(気になるニュース)
吉本新喜劇の「反社会的勢力」云々から仕事と金をもらったという話。そもそもお笑い芸人自体が反社会的存在であり、「反社会的お笑い芸人を目指した段階で、自己責任、自分がひとり社長であり、会社組織の一員、サラリーマンではない。
このドタバタをどう喜劇材料として全体をまとめるかどうかに吉本の命運がかかっているのだろう。