2020年8月2日東淀川教会礼拝 ヨナ書章6-11節マルコ福音書4章30-32節 マルコ福音書13章14-19節宣教題宣教題「さばきのときはいつか」
ヨナ書4章6-11節
時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。
マルコ福音書4章30-32節
また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。
マルコ福音書13章14-19節
荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。この事が冬おこらぬように祈れ。その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。
宣教題「さばきのときはいつか」
月から見れば地球に住む70億の人々の貧富の差は激しく難民の数は激増し温暖化で氷河の氷は溶け、海水の温度は上昇し、季節風の流れも海流の流れも変化している様子。日本でも2004年から人口減少に向かい始めている。
風邪やコロナウィルスなど感染性ウィルスが体内に入ったときの過剰免疫反応(サイトカインストーム)は、現代という時代の病理を反映していると感じる。文明の便利さや清潔さ、医療技術の変容、遺伝子操作、選択的不妊治療などに守られるほど、天然の野性的な生命力はますます失われている。核競争は今も続き軍縮への道も不明なまま。“神さまはこんな人類の罪をいつまでもほおっておかんじゃろ…”という畏れは広がっていると想う。巨大な原子力ではなく、とうごまよりからし種よりはるかにに小さいウィルスが恐怖とともに世界中の人間関係、つながりを曖昧にし、分断化ている。
イエスの“からし種”のたとえ話は、この世の巨大・微少、価値・無価値、強い・弱いなどの「ものさし」を神はひっくり返される。大きな木になる「からし種」とは反対に、巨大なローマ帝国も一晩で萎んでしまうという両面を含んでいる。世界も一つのウィルスで滅び得る。
神の求める最低限の「人間らしさ」すら失ったとき、神は世を罰せられる、という感覚は、ノアの箱舟だけでなく、世界中に普遍的に語り継がれ伝承された感覚である。“その時は山に向かって逃げよ”とは、洪水、地震、戦争など様々な災害が想起される。
「神の国」については聞く者によって異なる多様なイメージはあった。神の国到来が近い、「神によるこの世の裁きが近い」=驚くべき神のこの世への介入への待望もあったと思われる。
イエスが預言者として最後にエルサレムに赴き、イスラエル民族の罪、ユダヤの罪、ローマの罪などを断罪したとき、当然イエスは反乱者として処刑されるが、神が信じがたい形で介入されることをイエスご自身も願っていた、とするならば、最後の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(なにゆえ見捨てられたか!)も合点がいく。が、それすらもイエスを預言者として呼び出した主なる神の計画の内だったのなら、更に十字架の重たさが増していく。
「不要不急な勝手な徘徊は禁止」 第一次大戦後、スペイン風邪が国境を越えて大流行(パンデミック)し、5億人が感染し、移動が許可制になり、5千万人が死んだあと、収束してもその閉塞状況、他者・隣人不信から人類は第二次世界大戦に向かい始めたという解釈も成り立つらしい。
「神求める人間らしさ」とは何かを考えながら、祈り求めながら、この先を見届けるためにも、もうしばらく生かされたい。
先週の出来事
友人が40年以上主催してきたテント芝居が都市からも地方からも上演を断られ芝居ができなくなっている。医療崩壊の危機が叫ばれているが、それ以上に“そこに行けば気狂いピエロみたいに腹の底に給ったマグマを発散できる”「精神の健康さ」を守る場自体が緩慢な死に向かっているように感じられる。