20231203東淀川教会 礼拝宣教要旨「種を蒔くのは誰か」マルコ福音書4章1-9節
本日の聖書箇所
マルコ4章1−9
イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。すると、おびただしい群衆が御もとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられた。群衆は皆岸辺にいた。
イエスはたとえを用いて多くのことを教えられ、その中で次のように言われた。
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。
しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
ほかの種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びて塞いだので、実を結ばなかった。
また、ほかの種は、良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になった。」(8節)
そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。(9節)
8:マタイによる福音書13章 8-9節
ほかの種は良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。(8節)
耳のある者は聞きなさい。」(9節)
宣教要旨「種を蒔くのは誰か」
大勢の群衆は岸辺に集まっていたので、イエスは小舟に乗り、船の上から、おそらく大声で人々に語りかけたようです。
現代の私たちは種蒔きというと畑とか耕作地に種を蒔いている農夫を思い浮かべてしまいます。西洋画でもそうです。が、共通の記事があるマタイ、マルコ、ルカには土を耕す“耕作”“農業”は出てきません。しかもここに集まっている多くの群衆は自分の土地を持たない“貧しい人々”だったと思われます。
種蒔き人は主なる神なのか。農夫なのか。いのちを吹きこむのが主なる神であるならば、種蒔き人は神、或いは聖霊なのでしょう。種蒔きの主が神であることを前提にこの記事を読み返すとイエスのメッセージは違った響きとなります。
良い土地に落ちた種はルカでは100倍、マルコでは「あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍」と書かれていますが、マタイでは「あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍」と表現が逆になっています。これはなにを意味するのでしょう。
古代、国家に土地を限定されない、土地を所有しない遊牧民(モンゴルの遊牧民、日本の縄文人たち)は基本的に大地を耕さなかったようです。植物の種を蒔く(神が種を蒔くのを手伝う)のは風であり雨であり鳥であり動物たちです。そこに人間の手も加わるのですが、風が手伝うように草が生い茂る上から蒔いたようです。
道ばたに落ちた種は鳥たちを養います。
土の浅いところは土地の表面を耕作したところですぐ芽を出します。私たちがイメージする、狭い土地で少ない労働力で多くの収穫をねらう農法です。少し大きくしてほしい部分だけを収穫したらひっこぬいてしまいます。根を張って自生し、種を飛ばすようになることをさせません。また他の野菜などを収穫するためです。
茨の間とは、葉を茂らし陽の光を遮る大小の樹木のことだと思われます。日本の縄文時代は山の斜面の樹木を焼く焼き畑を行い、種をまき散らしたようです。モンゴルでは羊たちの入れない草だらけの場所に草の上からキビやソバの種をばらまいたようです。様々な植物の間に根を下ろした種は、深く根を下ろし、他の植物や野菜などと競合し合い、自生し続け、やがて種を飛ばす親となるわけです。それらの中から、長年にわたって様々な恵みを人間も戴くことができるのです。
良い土地とは、その種が選んだ土地のことであり、その種にとっての良い日当たりや水分で、他の植物と競合できる、長年にわたって根を張ることの出来る自然な土地のことと思われます。
マルコが30倍60倍100倍と書いたものを、マタイは逆に100倍60倍30倍と書いたのは、人間の願望・欲望を満たすために神は種を蒔いてくださるわけではないということを思い出させるための意図的な表現なのでしょう。
現代、モンゴルの種蒔きや、縄文人の種蒔きを取り入れて、お金になる農作物だけを育てる、これまでの日本の農法を見直し、他の植物とともに根を下ろすことが出来る、自然な植物環境に近づけようとする人々が様々な試みを始めています。注目し続けたい。