20231210 東淀川教会礼拝 宣教要旨「原罪は濡れ衣」創世記4章1−8節 マルコ福音書2章3−12節

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本日の聖書箇所(日本聖書協会訳聖書)

創世記4章 1ー8節
さて、人は妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は主によって男の子を得た」と言った。
彼女はさらに弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
日がたって、カインは土地の実りを供え物として主のもとに持って来た。
アベルもまた、羊の初子、その中でも肥えた羊を持って来た。主はアベルとその供え物に目を留められたが、カインとその供え物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
主はカインに向かって言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。」
カインが弟アベルに声をかけ、二人が野にいたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。

マルコによる福音書2章 3-12節
四人の男が体の麻痺した人を担いで、イエスのところへ運んで来た。
しかし、大勢の人がいて、御もとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根を剝がして穴を開け、病人が寝ている床をつり降ろした。
イエスは彼らの信仰を見て、その病人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中で考えた。
「この人は、なぜあんなことを言うのか。神を冒瀆している。罪を赦すことができるのは、神おひとりだ。」
イエスは、彼らが考えていることを、ご自分の霊ですぐに見抜いて、言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
この人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に言われた。
「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」
すると、その人は起きて、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚嘆し、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を崇めた。

本日の讃美歌 

天つ真清水1.217
朝日は昇りて1.97 
ガリラヤの風薫る0.57

宣教主題「原罪は濡れ衣」

 讃美歌の「天つ真清水」は天からの恵み、神からいのちを与えられ、自然を通していのちが再生されていることの喜びを歌います。古より神の事を「天」で、或いは「大日」・太陽や月星でその偉大さや尊さを言い表してきました。西洋的な「唯一神」「多神教」「汎神教」などの「概念」で区別・差別する感覚はアジアにはなかったと思います。あえて「唯一」を使えば、神とは唯一ONLYであると同時に、全てALLの神である、と言うべきでしょう。自分達の一つだけの神イメージを絶対化して他者にも押しつけるのは「神所有」なのでしょう。人間の傲慢さです。
子どもは生まれつき原罪を持って(悪として)生まれた、などと誰が言い始め教えたのでしょう。モーセ五書にはどう書かれているのでしょうか。イエスは「生まれつきの罪」を語ったのでしょうか。
 旧約聖書に最初に登場する「罪」とは、兄弟アベルへの嫉妬に駆られた兄カインが、怒りの感情を支配できず、弟を殺してしまう物語。「罪」とは、内側に湧き上がり抑えきれない嫉妬や憎悪の感情が為す心の闇が為す行為を示している。人は神が創造した神の子であり、人が生まれつき「罪の奴隷である」という人間理解は元々ない。モーセ五書の“殺すな”“盗むな”などは、人のこころに生じる嫉妬や恨みや敵対感情(心の闇)からでる行為を禁止し抑制せよと命じる戒めです。だから“顔を上げよ”と命じるのです。心の闇に支配されるとき、人は神に生かされていることを思わなくなり、神から顔を背けるのです。
神が弟アベルの捧げ物(羊)を受け取り、兄の耕した大地から収穫した農作物を受け取らなかった、とは、アブラハムなどイスラエル人のルーツは遊牧民であり、動物とともに移動し、特定の土地を独占したり大地を耕すことをしなかった。そこからの収穫を祝福したのは、定着の文明よりも移動の文化をこそ神は祝福していることを表します。

 福音書の「四人が一人を救おうとする行為」をイエスは“信仰(神の子の栄光を取り戻す行為)”と呼び、その一人に向かって「罪は赦された」と語ったと記されている。病気やハンディキャップを“神の罰”・“罪の結果”とする因縁論を神殿側が教え、ケガレ論がはびこり、それを浄めるために神殿に対して多額の献金や捧げ物をしなければならなかった。イエスはそれを“いいがかり”であり“濡れ衣”として無効を宣言し、そのひとを浄めた。それが「罪はなくなった」の宣言として行われたようです。

 “神が人を罰しているのになぜお前がそれを赦す権限(資格)をもっているのだ!”という神殿側の攻撃に対して、“罪は赦されたと言うのと、起きて床を担いで歩け、と言うのとどちらが易いか”のコメントは、会話の流れとして違和感が残ります。

 イエスたちを攻撃している神殿側、体制側に対し、その人(人々)に対する、ケガレとか、罪人とかの“負の烙印(スティグマ)”こそが神を冒涜し、神の子らを陥れる“罪”だと告発しているイエスの表現の一端でしょうが、どう語っても“豚に真珠”なのでしょう。迫り来る攻撃者たち一人一人を悔い改めさせるための余力・エネルギーはない。寝たきりだった人への烙印を打ち消し、「床を担いで家に帰りなさい」と命じて立ち上がらせるほうが(神の手助けをする方が)容易だった、ということでしょう。

聖書における原罪論の始まりはパウロからであり、教会のための神学を書き表したアウグスティヌスが原罪論を確立させたと言い切って間違いではないと思います。
ローマの信徒への手紙5章 12節
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」
ローマの信徒への手紙5章 15節
しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。
ローマの信徒への手紙5章 18節
そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。

「アウグスティヌスの性コンプレックス」
智恵の実を食べたエバとアダムが“恥じて腰をいちじくの葉で蔽って隠した”のは、神に隠れて性行を行ったのであり、ここから人間の原罪が始まった…云々。

イエスは、何が善だとか悪だとか罪だとか決めたがる人間の「大人」よりも、子どもこそそのままで神に祝福されているのであり、オトナたちよりも先に神の国に入る、と宣言しています。ならば、生まれつきの原罪などとは、『濡れ衣』です。

 アダムとエバの性行為から全人類が原罪に苦しむことになり、イエスの十字架による贖罪よってのみ神からOK、義人と見做される、そうしなければ救われない、という教えは仏教で言えば、人は煩悩(悪)のかたまりであり、煩悩を脱却して仏にすべてを委ねなければ救われない、という小乗文教的な教えに似ています。空海は人間が作り出す概念としての悪、ケガレ、罪などを「空」だと言い切っていると思います。

 イエスは、「全ての人の親が神(アッバ)であり、全ての人は神の子であり、全ての人は兄弟姉妹であり、自分自身を大切にするように兄弟姉妹、隣人を大切にすべきであり、人を差別したり疎外したり敵視したりする人たちに対して“神の子になにすんねん!”と言い放っていたと思います。(般若心経)

「濡れ衣」のルーツは、調べますといくつかの説があるようですが、「筑前に赴任した国司(役人)に美しい娘がいて、父親の溺愛ぶりに嫉妬した役人の後妻(娘の継母)が、漁師に金品を渡して『釣り衣・簑・濡れ衣』を買い取り、娘の部屋に隠し、夫に、娘が漁師と不義密通(自由恋愛)をしていると嘘を語り、娘の部屋を調べた父親がそれを見つけ、逆上して娘を殺してしまった…。
「無実」は「実が無い」と書くことから、「みのない」が「蓑無い」となり、雨具として使われる蓑が無いと衣が濡れるため、「無実」を「濡れ衣」と呼ぶようになった、冤罪を示すことばになったとする説が割合とびたっとくる語源でした。
いずれにせよ、「原罪」は濡れ衣です。

 こどもを残し守ろうとする性の本能、異性に対する複雑な思い、憧れやコンプレックスなどなど、複雑な、希望を見いだしにくい現代社会だからこそ、思春期から大人にかけての性の課題はとても悩ましい問題です。“悩め!青年”です。
 原罪論を振り回して「性欲は罪だ」という概念をもたらし、キリスト者が性的人間関係の課題に過剰に反応し、性コンプレックスを肥大させてしまった教会の罪は大きいと思います。こどもたちの写真に全てモザイクを欠け、幼児の頭をなでただけで「幼児性愛者だ」と決めつけられかねない昨今です。

 SEXについての世界の神話の中で古事記のそれはとても良いと思います。
最初の男女が神に与えられた互いの身体について語り合い、一方は「完全だが一箇所足りない」、一方は「完全だが一箇所余っている」 では足らないところに余っているところをさしいれて国(ひと)をつくろうと大きな樹木(天に届く柱)の周りを左右別々から回って、合体(SEX)をした、とあります。右手右側は積極的に外に働きかける手です。世界的に右利きの方が多いのです。左手は受け取る手、支える役割の多い手です。男と女のどちらがどうこうとか、役割分担がどうこうという議論はさておいて、性行(SEX)についての神話的な表現としてはすばらしいと思います。学校の性教育ではあまり用いられていないようですが。現代の医学的な、人権を振り回す小難しいジメジメした性教育よりも、いのちへの祝福を受け取りやすい、はるかに優れている神話だと思います。

 

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