20231217 東淀川教会礼拝宣教要旨「作られた処女神話」ルカ福音書1章26−38節

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本日の聖句

ルカによる福音書1章 26-38節
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。(26) ダビデ家のヨセフと言う人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアと言った。(27)
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(28) マリアはこの言葉にひどく戸惑って、これは一体何の挨拶かと考え込んだ。(29) すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。(30) あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。(31) その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。(32)
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(33)
マリアは天使に言った。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」(34) 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。(35)
あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。(36) 神にできないことは何一つない。」(37)マリアは言った。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで、天使は去って行った。(38)

宣教要旨「作られた処女神話」

 イエスの母マリアと“親戚のエリザベト”との話は教会史(使徒言行録)の著者でもある
ルカ(たち)によって書かれた福音書の記事です。十字架に架けられたイエスを救世主とするキリスト教を、ユダヤ教から切り離し、万人の福音として広めるため、親戚エリザベトの高齢出産、バプテスマのヨハネ誕生の物語をマクラに、神は救世主イエスを処女マリアを用いて誕生させた、という物語を作ったのでしょう。これは「イエスこそ神の子」という強調のために、福音書から「全ての人が神の子」という理解が後ろに退いたこととよく似ていると思います。イエスが誰から生まれようが、イエスが現れた“福音”は決して目減りするものではないのですが。
ユダヤ教は旅する遊牧民がルーツであり、導く族長は“男”であることが専らで、更に“敵対する者と戦う民”を導く神のイメージを「父なる神」として表現しました。神の“母なるイメージ”は希薄で、使徒パウロも、今日のキリスト教も信仰告白で「父なる神」と「父。が中心です。「聖なるマリア」像はそれを補う、バランスを計る意味もあったと思われます。

 カトリック教会などでは、父・子・聖霊なる三位一体の神が礼拝の対象であり、マリアについては、聖人たちとともに「崇敬」の対象であったのに対し、プロテスタント教会では「偶像崇拝禁止」の教義とともに礼拝対象から取り除いたため、父性的な神イメージがより強くとなったと思われます。

 「男」を神の右手の役割、戦士として表に立て「女」を背後から男やこどもを守る補助的役割と見做す戦闘的な感覚は、民俗紛争や戦争が続く歴史の中で補強され続けたのでしょう。

 平安時代と異なり、日本の戦国時代や江戸時代では女子やこどもは時に財産として、或いは取り引き材料として、或いは災難を鎮めるための人身御供として用いられた。結婚してこどもが生まれなければ、どちらに原因があるのかにかかわらず女が追い出された。こどもを産めない女、産まない女、一人で生きる女(やもめ)に対する蔑みをイエスは告発し続けた。(マルコ福音書12章 40節)
 異邦人や女やこどもや弱者を卑しめ貶めながら、或いは女に対するコンプレックスから、それとバランスを取るように、蔑むこころを補完するように、美化された聖なる女性像、聖なるこども像、天使像などを求め、同様に、「生理を迎えていない女こそが清い」という“処女神話”が生み出され続けたのでしょう。

 「イエスはただ一人の神の子」、「母マリアは処女のまま懐妊」などは、キリスト教を広めるための、いわば方便であったと思われます。しかしイエスは“無原罪の処女から生まれたキラキラと輝くスーパースター”ではなく、差別と偏見の中でマリアから生まれたのでしょう。

 イザヤ書53章に描かれた「彼には我々の見るべき姿がなく、威厳もなく、我々の慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌み嫌われる者のように彼は侮られた。我々も彼を尊ばなかった。」(2節〜3節)のほうがイエスの実像を正しく表していると思います。

「彼が担ったのは私たちの病 彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて 苦しめられたのだと。
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ 私たちの過ちのために打ち砕かれた。
彼が受けた懲らしめによって 私たちに平安が与えられ 彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。
私たちは皆、羊の群れのようにさまよい それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを 主は彼に負わせられた。
彼は虐げられ、苦しめられたが 口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように 口を開かなかった。
不法な裁きにより、彼は取り去られた。彼の時代の誰が思ったであろうか。私の民の背きのために彼が打たれ 生ける者の地から絶たれたのだと。
彼は暴虐をなさず 口には偽りがなかったのに その墓は悪人どもと共にされ 富める者と共に葬られた。
主は彼を打ち砕くことを望まれ、病にかからせた。彼が自分の命を償いのいけにえとするなら その子孫を見、長寿を得る。
主の望みは彼の手によって成し遂げられる。
彼は自分の魂の苦しみの後、光を見 それを知って満足する。私の正しき僕は
多くの人を義とし 彼らの過ちを自ら背負う。
それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え 彼は強い者たちを戦利品として分け与える。彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し 背く者の一人に数えられたからだ。多くの人の罪を担い 背く者のために執り成しをしたのは この人であった。(イザヤ書53章4ー12節)

イエスが現れる遙か以前に預言者イザヤによって描かれた受難のメシア像です。イエスはこのイザヤを通して示されたメシア像をそのまま引き受けられたのだと信じています。この受難のメシア像を新たに心に刻みつつ2023年のクリスマスをみなさまとともに迎えたいと願います。

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