20240225 東淀川教会受難節第二主日礼拝 宣教要旨「運命を重ねる」列王記上17章 列王記下4章 マルコ1章 週報2856

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聖書箇所

列王記上17章 17-24節(サレプタのやもめ)
これらの出来事の後、この家の女主人の息子が病気になった。病気は大変重く、その子はついに息絶えた。
彼女はエリヤに言った。「神の人、あなたは私と何の関わりがあるというのですか。あなたは私の過ちを思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
しかしエリヤは、「子どもを私によこしなさい」と言って、彼女の懐から息子を受け取り、自分が泊まっている階上の部屋に抱いて上がり、寝台に寝かせた。
そして主に叫んだ。「わが神、主よ、私が身を寄せているこのやもめにまで災いをもたらし、その子を死なせるおつもりですか。」
彼は子どもの上に三度身を重ね、主に叫んだ。「わが神、主よ、どうかこの子の命を元に戻してください。」   
主はエリヤの願いを聞き入れ、その子の命を元に戻されたので、その子は生き返った。


列王記下4章 32-36節(シュネムの女)
エリシャが家に着いてみると、子どもは死んで、寝台の上に横たわっていた。
彼は中に入って戸を閉め、二人だけになって主に祈った。
そして寝台に上がって子どもの上に身を伏せ、自分の口をその口に、目をその目に、手をその手に重ねてかがみ込むと、子どもの体は暖かくなった。
それから彼はまた起き上がって、家の中をあちこち歩き回り、再び寝台に上ってかがみ込んだ。すると、子どもは七回くしゃみをして、目を開いた。


マルコによる福音書1章 40−45節
さて、規定の病を患っている人が、イエスのところに来て、ひざまずいて願い、「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言った。
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、
たちまち規定の病は去り、その人は清くなった。
イエスは、彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせ、
こう言われた。「誰にも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた物を清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
しかし、彼は出て行って、大いにこの出来事を触れ回り、言い広め始めた。それで、イエスはもはや表立って町に入ることができず、外の寂しい所におられた。

宣教要旨「運命を重ねる」

(感染と集団免疫)
 偉大な預言者と慕われたエリア、エリシャ。子を病で失った二人の母の絶望を聞き届け、行った「わざ」は、亡くなった子と体を重ねる、一体化でした。それは“病を行為者に感染させ移す”ことであり、“運命をひとつにする”ことでした。
 一般常識でも律法でも、原因不明の病や伝染病などの患者に近づくことも死者に直接触れることも忌むべき行為でした。イエスの病める者への行いは、預言者の「わざ」を受け継ぐものであり、“直接触れる”、“接触する”行為でしたし、手当てし癒やしつつ、死にゆく人とも触れ続けていたと思われます。
 世の最後尾に立ち、細大の歎きを癒やす神のわざを代行しているだけなのですが、癒やされた者が「イエスの行った奇跡」として、神を崇めずイエスを崇め、大騒ぎしたため、行動的な病める者たちに追われ続ける羽目にもなったようです。
 現代、コロナウィルスの変異は続いていますが、「集団免疫」についての研究と議論が続いているようです。ウィルス感染の広がりによって、集団や交流する人々の中に、抗体も広がっていく、免疫力も高まっていく、というものです。医学的・人工的に免疫力を高めようとするのがワクチンです。免疫力が強ければ良いのかというとそうではなく、強くしすぎると自身の細胞にも攻撃を仕掛けてアレルギー疾患や自己免疫疾患を起こしてしまうし、弱すぎると感染によって重症化してしまうようです。人間も自然の中の生き物です。生物学の福岡伸一氏の言葉を借りれば、自然との「動的平衡」・バランスの中に答えがあるのでしょう。
 良きもの(食べ物も身を守る衣類も身を横たえる場所も)分かち合い、弱い者同士が支え合う、自分よりもより弱い者を支え合う、病すら分かち合うことを恐れない、信仰の先人たちが多くいたことも、イエスのわざとともに心に留め続けたい。

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