東淀川教会史(日本基督教会史の一断面)

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はじめに

目次

東淀川教会の歴史は、医師であり初代牧師である、菱川侃一(かんいち)氏の伝道から始まったのですが、その侃一氏が教会設立までにどのようなキリスト教の影響を受け、教会設立後も、教会全体がどのような流れ、影響の中で育まれてきたのかを私なりに描いてみたいと思います。

と同時に、今日の教会における聖餐論争等の「福音派vs社会派」(本当にそんな派があるのかは別として)の課題を東淀川教会史を通してたぐり寄せてみたいと思います。

東淀川教会の正面には白い十字架が架けられていますが、入り口横に赤い十字架もかかっています。 そこにある「物語」も掘り下げてみたいと思います。

菱川侃一(ひしかわ かんいち)の背景

○母「いく」からの影響
「いく」 1867年(慶応3年 大政奉還・坂本龍馬没年)誕生。播州の医家に生まれ梅花女学校に進み、宮川経輝(みやかわつねてる)牧師より受洗。1884年明治17年頃か。

宮川経輝:梅花女学校の第3代目の校長。熊本バンドのメンバーの一人で、☆日本組合基督教会の指導者。海老名弾正、小崎弘道と共に組合教会の三元老の一人)。

日本会衆派・組合基督教会
16世紀の英国教会から分離した会衆派(組合)教会が母体。バプテスト教会と同様、個々の教会のみを「教会」として、教会を超えた組織、国教会、教団などを教会とは認めない。一人一人の信徒(会衆)が契約によって個々の教会を形成するという考え方。1810年、北米で会衆派教会を中心に無教派的な外国伝道団体(アメリカン・ボード)が設立され、ここから1869年にグリーン、1871年にデイヴィスが来日。国禁を破って出国・渡米し、1874年に帰国した新島襄とともに同志社を創立する。この世の不真理と戦う、という印象が強い。社会派と呼ばれる所以か。

母「いく」の弟は医学校を卒業し、米国で勉強すべくハワイに渡り、風土病で永眠したという。当時米国へ息子を送り出す医家だから、播州のなかでも、当時“開けた”或いは“開けすぎた”家庭であったと思われます。

「いく」は、結婚後も夫である菱川音九郎から教会に行くことを反対されながらも教会生活を貫き、のちに夫を洗礼に導いていますから、『一歩下がって背後から夫を操りつつ支える』賢母タイプだったのでしょう。

母「いく」の受洗した頃は自由民権運動・反乱が日本各地で激化し、封建社会に抵抗する大同団結運動が起こっていく時代でした。でも、まだまだ、当時のキリスト教で、しかも女性が洗礼を受けること自体が覚悟を要する“反乱”であり、個人にとっても“大変革”であったと思われます。

母「いく」の子どもたちも、のちに長男精一氏は関西学院大学神学部から舞子教会牧師へ、長女は神学校へ、次女は教会活動、三女も教会活動、その後の次男が侃一氏ですから、母の教会生活からの影響は非常に大きなものだったと思われます。

父 「菱川音九郎」は1858年(安政5年)誕生(明石藩出身)士族の家。師範学校(一期生)を出て淡路島の福良小学校に赴任。同校の校長時代に受洗。 後に英国聖公会宣教協会によって建てられたプール女学校の教師となる。60歳で永眠するまでプール女学校と教会のために働く。父は士族の家出身で、母は医家出身ですから、体面を重んじる精神的風土は侃一氏の中にも強くあったと思われます。

東淀川教会前史
1898年明治31年 兵庫県明石市にて菱川侃一 出生
父、菱川音九郎が淡路島の福良小学校校長をしていた時代、河辺牧師が淡路島で伝道を始めたとき、妻いくの導きで、音九郎も教会に通うようになり、河辺牧師より洗礼を受け、この教会で菱川家が最初のクリスチャンホームとなる。 侃一氏が小学生のときに河辺牧師が大阪で教会をつくったのをきっかけに家族で大阪に移り住み、侃一氏はまだ小学生であったが河辺貞吉牧師から洗礼を受けている。 侃一氏は河辺牧師の娘である溢子さんと後の1926年に結婚していますから、河辺牧師からの影響は非常に大きかったと思われます。

河辺貞吉(かわべ ていきち)日本自由メソジスト教会の指導者 元治(げんじ)元年生まれ。実業家を志して渡米し, 明治20年(1887)サンフランシスコでキリスト教に入信。帰国後,淡路(あわじ)島で伝道をはじめ,日本自由メソジスト教団を創設。また聖書塾大阪伝道学館(現大阪基督教短大)を創設。「非常に熱心なグループ」初期のリーダー。

父、音九郎は大阪プール女学校のトリストラム女史に教師として招かれますが、 音九郎と一緒に招かれた工藤玖三教師が菱川の家の離れに住み、その聖書講義に家族が親しんだ、とあります。工藤玖三氏からの影響も非常に大きかったと思われます。

工藤玖三牧師
後にメソジスト・ホーリネス系きよめ派教会の牧師、天皇の神格を認めなかったため軍部の弾圧により投獄され80歳で獄死)

メソジスト教会
17世紀半ば、ジョン・ウェスレーの教えを中心に英国教会内で信仰覚醒運動(リバイバル 著しい信仰の目覚めを促す)が起こる。覚醒した人の宗教的経験が重視される。個々の宗教的経験が究極の宗教的権威となり、どの宗教的経験を重視するかによって教義理解に差が生じ、ここからホーリネス(ホーリー・聖化・聖別)教会、○○派など「非常に熱心なグループ」が分かれていく。  メソジスト教会の神学的中心は「キリスト者の完全」であるといわれる。ルーテル教会の「義とされた人」、改革派教会の「忠実なしもべ」とは異なり、すべての人に自由な意志決定が神さまから求められているとする立場であり、すべての人は与えられた自由とともに、自己責任によって完全な救い、聖化を目指すことが求められることになり、倫理的・道徳的な生き方、信仰的な正しい生活(メソッド)が重視される。「几帳面、清貧な信仰生活」という印象が強い。

1911年明治44年 大阪府立市岡中学入学 13歳
1916年大正 5年 大阪府立医科大学(現 大阪大学医学部)
入学18歳 大学の中で、青年会、日曜学校、バイブルクラスなど、活発な教会活動をしていた。

2 医師の時代
1923年大正12年 医科大学卒業 医科大学楠本内科へ 25歳

1925年大正14年 京都大学松尾内科研究生 27歳

1926年大正15年 河辺貞吉牧師の長女 河辺溢子(いつこ)と結婚 28歳 京都御幸町中央教会(中央メソジスト教会 現在の京都教会)に教会籍を置き教会活動。

1927年昭和 2年 京都大学より医学博士号 授与 29歳

1928年昭和 3年 秋田県鷹巣町町立病院設立 院長就任 30歳 与えられた屋敷を開放して聖書研究を続け、伝道集会を行い、日曜学校も続ける。ここが日本基督教団鷹巣教会の出発点となる。  長男のジフテリア療養のため、関西に戻ることになる。

1932年昭和 7年 大阪府吹田ビール会社診療所所長就任 34歳 吹田メソジスト教会に転籍。 府立医科大学講師 吹田医師会創立に関与  大阪四貫島診療所開設 暁明館病院設立に関与

エピソード
『恵みの中に生かされて』の中で、当時の侃一医師の姿を表すエピソードとして、長男創一氏が紹介していることからの抜き書き。

…あるとき二階の廊下から、向かいの屋根に止まっていた雀を、父が戯れに空気銃で撃ったところが、狙いがはずれて樋に弾が当たり、ほんの少し凹みをこしらえたことがあった。
ブリキの塗料も剥げていないくらいの傷だったが、父はこれを謝らずに済ませることができず、かといって自分が大家さんのところに出向くのも大袈裟で、沽券にかかわると考えたのか(父は当時、まだまだ数少ない医学博士さまで、吹田医師会の重鎮であった)、
私に無理矢理に口上を吹き込んで、大家さんの所まで謝罪に行かせたのであった。私もまた当時は馬鹿正直だったか、或いは父が怖かったのか、命じられるまま、その家まで行って、口上を述べ、家の人が変な顔をするのを見届けて帰った記憶がある…

(このあたりに、当時のメソジスト青年の、完全な人格を目指す熱き心と、現実の自分との間に葛藤を起こす姿が現れているように思われるのです。)

1940年昭和15年 肺壊疸に倒れる 三年間絶対安静状態 1942年まで 42歳

1943年昭和18年 尾鷲病院院長。機銃掃射のもとで診療。病院食は自宅より運ぶ 。

1945年昭和20年 貝塚市民病院院長。敗戦。
チフス患者続出  駐留軍への届け出などで多忙 47歳

1946年昭和21年 大阪市庁診療所所長 肺結核で死に臨む人々に洗礼を、との希望を持つ 48歳

牧師への動機 …メスや薬を持つ医師は病と闘うが、必ず敗北する運命が待ち受ける。そのとき、病とともに去る人間にどう向き合うのか、向き合わないのかの大きな問いに直面する。侃一医師にとって、病に敗北したあとの、その人とどう向き合うのかについて、敗北した医師としてではなく、主なるイエスの弟子として、去りゆく人に洗礼を、と願ったのだろう。…  医師としての真摯な生き方は長男創一氏や四男音三郎氏、更に孫の慶一氏等に引き継がれていきました。医術のみならず、様々な分野で侃一氏の六人の子どもたちが、各々父母の真摯な姿勢に導かれて「神の国」のための“働き手”になっていったことは、今日の親がこどもに生きる姿勢としての影響力を与えられない情況からみれば、驚異的です。

菱川侃一氏 教会誕生まで
東淀川教会の誕生  

3 牧師の時代

1958年昭和33年 日本基督教団正教師となる。医師で日本基督教団牧師資格を取得した第一号であった。 60歳

1959年昭和34年3月29日日曜日 イースターに宮原町3丁目にて東淀川教会の礼拝を始める(東淀川教会誕生)

この地を選んだ理由として、吹田に近いこと、さらに、東淀川の宮原町周辺はいわば「下町」であり、弱い立場の労働者たちが住む町であり、在日外国人も多く、医療の恩恵からも遠い地域であったことが前提だったのだろうか。弱き者の傍らに立ちたいという思いがこの地を選ばせたのかもしれない。

或いは1960年に開設する東淀川キリスト教病院(南プレスビテリアンミッション・米国南部長老教会)の働きが近くにあり、医師としても連携して働きたい願いがあったのでは、と思われる。

1959年4月1日 教会籍を千里山教会より東淀川教会へ移す。
松本兄、松本姉、野間兄など集まる。

11月29日 大阪教区の西原前区議長の司式で東淀川伝道所開所式が執り行われる。出席58名。竹鼻一家、月田兄、三上兄、十倉兄、多賀姉、
日下部姉、新川兄、佐々木兄、大川兄、横内兄など集まる。

宣教師マヤ先生の協力。

1960年 昭和35年 5月 第一回洗礼式
野間兄、松本兄、日下部姉、多賀姉、中尾兄、佐々木兄 受洗

12月18日 北中島小学校で行われた「第一回市民クリスマス」に参加。

1961年 1月1日 新年礼拝 説教は菱川精一牧師
北垣俊一神学生

1965年 昭和40年 11月 訪欧 ドイツのハンブルグ大学
ゲッチンゲン大学へ 1966年まで

1966年11月13日 第二種教会設立式記念礼拝を執り行う。
説教はドリスキル宣教師
(米国長老教会から派遣されていた宣教師)

1967年 昭和42年  菱川牧師 淀川キリスト教病院へ入院。
平田 甫牧師の協力。

3月26日復活節 説教は金井愛明牧師 司会は竹鼻氏。
キリスト新聞社刊「新聖書大辞典」医学部門を担当 1969年まで

※金井愛明牧師からの影響(会衆派・組合系教会)

金井愛明牧師
会衆派・組合教会の中心である同志社大学神学部出身。1956年、大学院生時代から労働者問題に関わり始める。社会から「貧しくされている人々」への伝道を志し、関西労働者伝道委員会活動を行いながら、底辺におかれている労働者たちの街、釜ヶ崎に赴く。エキュメニカル(超教派的)なグループ活動、 釜ケ崎キリスト教協友会活動、食を分かち合うための食堂経営等をしながら大阪釜ケ崎で教会活動(日本キリスト教団西成教会)を行う。

一方にある、自らを聖化する教会活動とは異なり、同志社大学を中心に、労働問題に身を投じ、社会の底辺に置かれている人々の傍らに立とうとする伝道姿勢が組合系教会を中心に広まっていった。金井牧師とのつながりは、釜ケ崎で「赤ひげ」と呼ばれた本田良寛医師とのつながりであったか。侃一牧師は視力を失いかけつつも、東淀川教会移転の課題を抱え、一方では、「新聖書大辞典」医学部門の執筆を依頼されていた侃一牧師は教会の主任牧師としての働きを金井牧師に依頼する。自らを「聖化・聖別」していく、メソジスト系の教会活動の影響を受けながらも、母から受けた影響、或いは自ら医師として、イエスの働きの如く、汚れを引き受け、助けられない「弱くされた人々」の側に立ち続けようとする教会活動を金井牧師に求めたと思われます。

1968年昭和44年 1月26日の礼拝を最後に新大阪周辺区画整理のため、伝道開始からの 宮原町3-360の会堂から立ち退くことに。
当時の教会は借地借家であったが10年間重要な役割を果たしてきた。
立ち退き後は近くの保育園を借りて金井先生を中心に、竹鼻一家、中川一家、村上一家、中塚一家、野間一家、大川兄等集まった。

4月より東淀川教会主任に金井愛明牧師が就任

1969年昭和44年 1月26日の礼拝を最後に宮河町
3丁目から移転する。淡路町2丁目191の竹鼻さん方へ
菱川氏の視力低下 11度の手術を受けるが失明 71歳

1971年~1986年 昭和46~61年 日本ミッションの
ラジオ牧師を務める。73歳~88歳まで

1971年昭和46年 主任牧師 金井愛明牧師
8月に会堂が与えられた。土地は借地で建物は教会所有。
菱川ご夫妻の献金、竹鼻一家、中川一家、中塚一家の献身、
献金が大きな力。この頃菱川牧師は失明していたが、健康が
回復したため9月26日菱川牧師司式で西淡路2丁目の現在地で
献堂式を行った。

1973年昭和48年 日本ミッション京都北支部
日本ミッション茨木支部との連携が始まる
南アフリカからの宣教師コルネリオ・ファベイ夫妻、
日本ミッションからの影響を受ける。

(日本ミッション)
日本ミッションは,南アフリカからの宣教師コルネリオ・ファベイ夫妻によって1957年(昭和32年)に設立された超教派のキリスト教伝道団体。1960年,病床にある人々を対象にラジオによる放送伝道を開始。放送だけでなく、羽曳野病院など50程の病院の院内で聖書研究会の集会を開き,重症患者には病床へ個人訪問もしていた。

「病んでいる者を訪ねよ」とのイエスのみ言葉から牧師として再出発した菱川氏がコルネリオ・ファベイ夫妻の活動に共鳴し、彼らから招かれ、長期間従事。短波による海外放送を含め10局から放送がなされた。

現在は医療が進み、結核患者数は激減し、療養所が総合医療施設に変化し、その他により、病院への訪問はごく少数となり、時代もラジオの時代からテレビに移り、製作担当者の召天、その他で休止している模様。

関西聖書神学校(工藤弘雄牧師)との協力関係と影響

関西聖書神学校(工藤弘雄牧師)

日本イエス・キリスト教団は神戸市兵庫区に事務所を置く。聖公会宣教師で松江バンドの中心であったバークレー・バックストン、河辺貞吉、笹尾鉄三郎、竹田俊造らのメソジスト・ホーリネス運動の流れにある「聖霊体験を重視する非常に熱心なグループ」の神学校。

菱川牧師は自身の失明のことがあり、主任牧師をお願いした金井愛明牧師は釜ヶ崎での活動に戻られ、ラジオ伝道に時間を割かれるため、牧会活動を、おそらく超教派活動の中で知り合った工藤弘雄牧師や神学生たちにお願いしていたと思われる。

1973年昭和48年 名誉牧師:菱川侃一 神学生:藤井宏雄
司会:中川 受付:菊谷 竹鼻 教会学校 司会者:近藤 お話:竹鼻
中学科(横山、中塚、近藤、大木、坂之、樫林)小学科(近藤、中塚、糸井、山田、長岡)
幼稚科(みわちゃん さっちゃん すがちゃん きよみちゃん
くみこちゃん せいちゃん くみちゃん)
宣教者:工藤弘雄牧師 藤井宏雄神学生
唐沢 豊牧師 向後昇太郎牧師 小向神学生

1974年昭和49年 菱川侃一名誉牧師 小向三郎神学生

1975年昭和50年 2月23日礼拝
牧師:菱川侃一 神学生:小向三郎 司会:野間兄奏楽:竹鼻姉
丸山神学生歓迎会

1978年昭和53年 菱川侃一牧師 丸大勝神学生
青年会(阿部 菊谷 樫林 久山 大井 四宮 谷 竹鼻 高尾
西嶋 西出 中川 上里 辻 丸大 三木)

 赤い十字架
東淀川教会に多くの青年たちが集い、青年会が教会活動の中心であった時期でした。青年たちの中には、在日大韓基督教会出身の者もおり、大韓基督教会のシンボルでもある赤い十字架を教会の玄関横に取付けたようです。それが今日まで掲げられてきたのは、一つの宗派的伝統に拘らず、ここに集う者が持ち込む多様なキリスト教のシンボルを、その人とともに受け入れようとしてきた寛容さがあったからだと思います。

1979年昭和54年 菱川侃一牧師 土屋信二神学生

1980年昭和55年 菱川侃一牧師 瀬 孝宣神学生

1981年昭和56年 菱川侃一牧師 藤山勝彦神学生

1982年昭和57年 菱川侃一牧師 長谷川健二神学生
藤山勝彦神学生

1983年昭和58年 菱川侃一牧師 長谷川健二神学生
岩間洋神学生

1984年昭和59年 菱川侃一牧師 岩間洋神学生 赤羽章神学生

1985年昭和60年 菱川侃一牧師 赤羽神学生 坂口神学生

1986年昭和61年  菱川侃一牧師 坂口神学生
10月頃、地主より借地を売却したい旨の話があり、土地の購入を機に、宗教法人の申請の準備を行う。
菱川牧師 国立循環器センターに二回入院(心筋梗塞)

1987年昭和62年 3月 説教 菱川侃一牧師
4月 説教 工藤弘雄氏
「日本基督教団東淀川教会」設立公示4月5日 代表は菱川氏。

1988年昭和63年(昭和最後の年)10月28日
菱川侃一氏自宅にて招天 千里山教会にて告別式 90歳

1990年平成2年 5月6日 山本晃伝道師を招聘

山本晃伝道師

1991年平成3年 顧問牧師は工藤弘雄氏 補教師であった
山本晃氏を主任担任教師として招聘。総会議長は野間伸一氏。
書記は杉山智司。神学生は志賀覚氏。

1994年平成6年 山本晃牧師辞任。神学生は石田高保氏。

丸大勝牧師

5月8日 教会総会 代務牧師は丸大勝牧師。
神学生は志賀覚氏より石田高保神学生へ。
会計役員は杉山。会計監は石井姉。

1995年平成7年 顧問牧師は工藤弘雄氏 神学生は宮里鉄夫氏。
12月15日週報記録(顧問牧師:工藤弘雄 牧会教師:工藤須美子
伝道師:杉山智司 教会学校担当教師は杉山智司伝道師、工藤須美子師
総務は木村由延氏。

1998年平成10年 3月末まで顧問は工藤弘雄牧師
牧会教師が工藤須美子、教師が杉山智司。

岩橋田鶴子牧師

4月5日教会総会 議長木村由延 書記杉山由美子
代務 丸大勝牧師辞任  岩橋田鶴子牧師(代務)就任
担任牧師 杉山智司牧師
12月年末に向井憘夫・向井武子牧師説教を担当
12月2日礼拝後臨時総会
議長:岩橋田鶴子牧師 書記 木村由延
次年度より向井武子姉を専従牧師として招聘することを決定。3月で岩橋田鶴子師・杉山智司師の辞任を決定。

向井武子牧師就任 協力牧師 向井憘夫

1999年平成11年4月 向井武子牧師就任 協力牧師 向井憘夫
1998年3月で顧問の工藤弘雄牧師は退き、岩橋田鶴子牧師(代務)が
就任。岩橋田鶴子牧師は、夫である岩橋常久牧師(南大阪教会)と
部落差別問題などに取り組んできた会衆派系、社会派の牧師である。

向井武子牧師は牧師になるまで夫である向井憘夫牧師とともに大阪大道教会(初代牧師、亀水松太郎師は、監獄にてイエスと出会い牧師となり60才で設立)、枚方市の津田教会、山口県の宇部教会、神戸愛生伝道所などでの牧会を支えてこられた。宇部教会時代から佐藤誠死刑囚等の獄中者の声を外に届ける活動を続けられた。1985年に牧師となり、1987年から、世間の非難を一身に浴びながら、死刑囚であった前田伸二(向井伸二)を我が子として養子縁組し、向井憘夫牧師とともにそのいのちを支え続けた。日本における死刑廃止運動の牽引者でもある。お二人の宣教活動、生活の仕方もまさにメソジストの清貧そのものという印象があります。
向井武子牧師が主任牧師として最初に牧会を引き受けられたのが東淀川教会でした。

当初、関西聖書神学校の支流(branch)の一つといったような影響がまだ色濃く残っていました。向井武子牧師が全面的に中心となったわけではなく、それまでの神学校学生の説教・教会活動訓練の場、神学生たちが忙しいときは神学校牧師夫人たちが説教を担当するなど、神学校に従属している東淀川教会という側面を残していました。多くの若者たちが集って牽引していた時期と異なり、集う人数が減ってきたこととも重なり、東淀川教会の特色、固有性が曖昧になっていったようです。

さらなる問題は、教会運営が教会員一人ひとりの合意形成・会議制を基礎としておらず、恣意的であり、教会役員会議事録、教会総会議事録などが残されていませんでした。 会計監査、議事録監査、日本基督教団大阪教区への諸報告、牧師招聘手続きなどもほとんど行われていない状態でした(向井武子牧師招聘手続きは岩橋田鶴子牧師によって正式になされた)。

まずは会議制の確立、そして「裁き」「終末観」を中心とした“激しい聖書理解”から、聖書の本来の福音理解へと戻していくことにかなり苦労された様子です。まずは日本基督教団の教憲教規に基づく会議制、諸手続きを行いながら、礼拝は教団の教会暦に従い、聖書理解については教団の信仰告白を基準とすることなどが実質化されていきました。

新しい東淀川教会へと向かうために具体的に整備されたことは
① 日本基督教団の信仰告白、使徒信条を基礎とする
② 開かれた聖餐式(すべての人に向かってご自身を差し出された主イエスに従う)
③ 新改訳聖書から口語訳聖書へ
④ 讃美歌を「聖歌」から「讃美歌第一編・第二編」へ。
⑤ 礼拝開始時間の変更(午前11時からを午前10時30分からへ)
⑥ 研修会、役員会、教会総会議事録など合意形成を積み上げていくこと、等などが決められました。

それまでの、非常に熱心な、リーダー的(カリスマ的)な個人の聖霊体験に依存するような集団のあり方は、終末思想、選民思想を背景に一定の熱心さは引き出せますが、どうしても指導者依存、指導者による上意下達が教会のシステムになってしまいます。

十字架の元に集うひとり一人が神の前に招かれたかけがえのない存在(主体)であり、それぞれの思い、祈りの総和が教会形成となっていくべきであるのに、「まつりあげられた指導者」依存がそれを妨害してしまうことになります。
“みすぼらしい教会では信仰もみすぼらしくなってしまう”といった、ある教会員の発言を厳しく諫めておられた向井武子牧師の発言も記録に残されています。まさに清貧を大切にするメソジスト系牧師らしい指導でした。

しかし、それまでの指導者依存から脱却できないための激しいぶつかり合いもあり、東淀川教会を去って行く者もいましたが、大胆に変革はなされていきました。

金田恆孝牧仕

2008年平成20年3月 総会 向井武子牧師 体調不良のため辞任。金田恆孝牧師の招聘を決定。教団承認
4月21日 教区での任職式6月1日豊田通信牧師の司式で行われる。

三色模様
キリスト教会を教派で分けず、全体を「リベラル派」「福音派」「聖霊派」という三つのカテゴリーで分けて理解する方法がある。それらを
「個人派」(神と個人の対話重視。リベラル、自由主義、社会派とも)
「集団派」(神に近い集団形成。福音主義、聖別主義、敬虔派などとも)
「熱心派」(聖霊の働きを重視。神秘体験を共有する集団形成。熱狂主義とも)と言い換えても良いかと思います。

東淀川教会には、時の流れの中で、その三つとも織り込まれた“模様”があります。玄関に掛かっている「赤い十字架」もまたその跡です。

様々な潮流を経験しながらも、初代牧師から始まった、その底に流れている、この世で「貧しく 弱く 疲れて 病んで」いる人々への『まなざし』はずっと変わらなかったと思います。

 あらたに着任した「金田」は(おじいさんは曹洞宗の門徒、父親は出雲系の神主でした。中学生時代に、長野県飯田市の吾妻町教会(恩寵塾)の寺田博牧師や、後に喜界島の非軍事化運動を続けられた丸山邦明氏に影響を受け、大阪へ出たあと、池田五月山教会にて中川昌治牧師より洗礼を受け、関東学院大学では山本和教授(日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡の原案作成者) からバルト神学の講義を受け、同志社大学神学部(会衆派・組合派)へ編入後は、神学とは何かを問い続けましたが、「神学」を学ぶことはほとんどしませんでした。組合系の自由な気風だけは受け継いだと思います。西宮公同教会担任、尼崎教会担任、10年間の北六甲教会主任を経て東淀川教会牧仕(教会活動専従者)に着任しました。
侃一牧師の母、「いく」さんの教会理解、或いは金井愛明牧師の教会理解に戻った、とも感じています。

「あなたがたは教師と呼ばれてはならない」というイエスの言葉は重く私たちに迫ってきます。教団は牧師という字を「牧仕」「教仕」と書き換えるべきだという持論をもっています(建議はむずかしそうですが…)。組合の専従者同様、みんなの活動に仕えるべき、そこの専従者、というのが私の理解です。本音・建て前の区別なく、教会は集うひとり一人(求道者)に仕え、教区は各教会に仕え、教団は各教区に仕える組織形態のあり方(観念的組織論やたてまえではなく具体的に)が、主イエスへの応答姿勢なのだと思います。
金田は神戸市北区にある児童養護施設に心理担当者として週五日勤務し、更に、尼崎市の中学校のスクールカウンセラーも週一日勤務し、教会に常駐できず、「教会活動専従者」と名乗りつつも、教会活動を積極的に展開できていないまま十年あまり過ぎました。

着任後の4年間に大きな柱であった方々が何名か神様に召されました。生死をさまようような大手術をされた方も何名かおられます。建物も高齢化、老齢化しており、古い和式トイレを新しい洋式トイレに改装したり、雨漏りが始まった屋根の葺き替えなどがありました。
2012年1月に金田に肺気腫の診断が下され、喘ぎながら階段を上り下りしています。2017年に教会役員を担ってくださっていた3名の方がそれぞれの理由で教会を離れることになりました。教会を存続すべきか、解散すべきかの話し合いがなされましたが、数名残っている教会員の意思もあり、金田が常勤で務めていた児童養護施設を定年で辞任することとも重なり、給与(牧師謝儀)なしでどこまで続けられるか解りませんが、仏教で言えば他力本願、ひたすら主に委ねて小さな礼拝を続けています。