東淀川教会20180415礼拝 イザヤ35:1-7ルカ6:6-11 主題「萎えた者を土俵に立てて」司式:金田恆孝

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礼拝worship
前奏prelude~招詞invitation~讃美hymn~主の祈りLord’s Prayer~使徒信条Apostles Creed ~交唱alternately Pray~Bible~讃美hymn~Message~讃美hymn~
聖餐式Holy communion~Thanks hymn~献金 donation~頌栄doxology~祝祷Benediction

4月の聖句(招詞invitation)
イエス・キリストは言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」ヨハネ20:21
Jesus therefore said to them again, Peace be unto you: as the Father hath sent me, even so send I you.

旧約聖書 Prophet Isaiah イザヤ書35章1-7節
35-1 荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
35-2さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
35-3 あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。
35-4 心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
35-5 その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。
35-6その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの
舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。
35-7 .焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、
山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる。

新約聖書 Luke ルカ福音書6章6-11節
6-6 また、ほかの安息日に会堂にはいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。
6-7律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日にいやされるかどうかをうかがっていた。
6-8 イエスは彼らの思っていることを知って、その手のなえた人に、「起きて、まん中に立ちなさい」と言われると、起き上がって立った。
6-9 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。
6-10 そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。
6-11そこで彼らは激しく怒って、イエスをどうかしてやろうと、互に話合いをはじめた。

宣教要旨(萎えた者を土俵の上に立たせ)
イザヤ書35章。破壊され荒廃し、毒に満ちた地上が今、色鮮やかに回復する姿、ビジョンが活き活きと描き出されている。花も虫も動物も喜び歌うようになると。そして「滅亡」におののく人間のこころに、「強くあれ!」の神の祝福が聞こえてくる、というのだ。眼の働きが萎え、耳の働きが萎え、体のあちこちが、心が萎えている者の「萎え」が解きほぐされ、力がわき上がり、自然の動植物たちと一緒に、いのちを活かす神を讃美するようになる、というのだ。こんなビジョンは決して失いたくない、変わってほしくない美しいビジョン、「絵」だ。
ルカ福音書6章。イエスは集会所のような会堂でモーセ五書、預言者の書、律法について等々、その紐解き、解説をしていたようです。多くの人々が「ナザレのイエスの話が聴きたい」と求めたのでしょう。
集まった人々の中に紛れ込んでいた右手の萎えている者がいた。「萎えている」とは、現代風に言えば“機能障害”か。眼が萎え、耳が萎え、頭が萎え、内蔵が萎え、手足が萎え、皮膚が萎え、こころが萎える…といろんな使い方、理解の仕方ができる。「じじ・ばばになって、みーんな萎えちまった…」みたいな。萎えが部分的に激しいと、それは「罪の結果」「ケガレている」「ケガレが伝染する」などと“萎えが目立たない”人々から露骨に排除されていたことが聖書から伝わってくる。現代社会では、この“いちじるしいケガレ”を敷居で為切られたところに、保護という名目で隔離することが“福祉政策”と呼ばれてきた。どこかが萎えてしまって回復しそうにないものは「ケガレ」とみなされた。
そんな右手の萎えた者(ケガレ)を、イエスはみんなの真ん中に立たせ(土俵の上に立たせ)、「私の言うとおりにしなさい。手を伸ばしなさい」と命じられ、すると萎えて動かなかった手が動き出して伸びた、とあります。排除され萎縮していた存在が皆の中央に招き出され、もつれて働けなくなっていた神経や筋肉が、萎えさせていたものが取り払われ、イエスのことばにしたがって動き出した、ってことでしょうか。
そもそも安息日とは、働かなければ生きられない奴隷状態からの解放であり、この世で何かをしなければ、ひとの食事の用意をしなければならない、食べたものの消化をしなければならない、あらゆる義務、労働からの解放が始まり。それを人を縛る律法にひっくり返したのは誰だ!とのイエスのことばが聞こえてくるような気がする。さて現代にワープ。土俵に「やもめ」も「おやま」も「うまずめ」も「おかま」も「山姥」も、みーんな上げて「相撲甚句」のBGMで、天岩戸開きのための、アマノウズメの鄙猥なダンスをしたら、女神、天照大神を喜ばせる神事になるのでは、と思われる。
 

 

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