東淀川教会30180624礼拝宣教題「心の奴隷とは」出エ21:2マタイ6:25-30司式:金田恆孝
礼拝worship
前奏prelude~招詞invitation~讃美hymn~主の祈りLord’s Prayer~使徒信条Apostles Creed ~交唱alternately Pray~Bible~讃美hymn~Message~讃美hymn~聖餐式Holy communion~Thanks hymn~献金 donation~頌栄doxology~祝祷Benediction
旧約聖書 Exodus出エジプト21:2、21:16
21-2 If thou buy a Hebrew servant, six years he shall serve: and in the seventh he shall go out free for nothing. あなたがヘブルびとである奴隷を買う時は、六年のあいだ仕えさせ、七年目には無償で自由の身として去らせなければならない。
21-16 And he that stealeth a man, and selleth him, or if he be found in his hand, he shall surely be put to death. 人をかどわかした者は、これを売っていても、なお彼の手にあっても、必ず殺されなければならない。
新約聖書 Matthewマタイ福音書6:25-30
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
宣教題「気付かぬ心の奴隷状態」
人間の奴隷、というと囚人のように牛馬の如く使役されるイメージがあるが、出エジプト記に描かれる奴隷は、負債の代償として雇用者・主人に仕える期間限定の労働者・使用人、というイメージがある。相手の承諾が大前提である。承諾なしに行われるのは「ひとさらい」「かどわかし」であり、厳しく禁止されている。日本語の「煮て喰おうが、焼いて喰おうが…」という家畜のイメージではない。神の似姿としてその存在は尊重される。
「人は神さまにどれほど愛されているか」についてのイエスのメッセージと受け取られることの多い聖書箇所だが、むしろイスラエルの人々への厳しい批判として理解すべきではあるまいか。
「自分は惨めな奴隷なんかではない」と自負しているイスラエルの人々に向けて語られるイエスの言葉は、気付きにくい「心の奴隷状態」を明らかにしていると思われる。
「何を食べようか、何を着ようか…」衣食住の奴隷になっているのは誰か。
「まくことも刈ることも…」労働の奴隷になっているのは誰か。
「自分の寿命を…」健康の奴隷になっているのは誰か。
「栄華をきわめたときのソロモンでさえ…」品位や地位や格調・ステータスの奴隷になっているのは誰か。
現代社会はまさに「こころの奴隷状態」をそれと気付かせずに大量生産していると感じられる。衣食住を確保するために「奴隷」を強いられる「貧困」が拡がっている。「働かざる者喰うべからず」という使役感覚は根強い。栄養や健康に対する「信仰」はますます強まり、「サプリメント」市場は厖大な利益を上げ続けている。
反対に「不健康」「副流煙」「不潔」「雑菌」「ウィルス」などへのヒステリックな反応はますます強まっている。健康信仰への奴隷化と、健康を妨げるかもしれないものへの敵視(ヘイト)はちまたに溢れかえっている。 イエスの言葉を現代の社会病理に照らし合わせつつ受け取りたい。
○先週の出来事
大阪地震、まだ揺れは治まっていない。いつどこでどれほどの地震が発生するか予測は困難。 ならば、少なくとも「危険」をより少なくするためにも、原発を全面ストップすることはごくあたりまえの感覚と思われる。これこそ「国民投票」で問うべき課題である。