東淀川教会20181007 礼拝 箴言16:1-3 マルコ4:24-25 宣教「量る秤は誰の手に」
旧約聖書 箴言Proverbs 16篇1-3節 11節
16-1 The plans of the heart belong to man; But the answer of the tongue is from Jehovah.
All the ways of a man are clean in his own eyes; But Jehovah weigheth the spirits.
Commit thy works unto Jehovah, And thy purposes shall be established.
16-11 A just balance and scales are Jehovah’s;
All the weights of the bag are his work.
心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。
人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。
あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。
16-11
正しいはかりと天びんとは主のものである、袋にあるふんどうもすべて彼の造られたものである。
新約聖書 マルコ福音書 Mark 4章24-25節
4-24 And he said unto them, Take heed what ye hear:
with what measure ye mete it shall be measured unto you; and more shall be given unto you.
4-25 For he that hath, to him shall be given: and he that hath not,
from him shall be taken away even that which he hath.
また彼らに言われた、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、
自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。
だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」。
宣教題「量る秤は誰の手にある?」
この箇所は、他の箇所と繋げて「人が他者を(一方的に、或いは、自分の基準で)裁いてはならない」という、
倫理的な説教として語られることが多い。
正しいはかりと天びんとは主のものである、袋にあるふんどうもすべて彼の造られたものである。箴言6章11節
イエスの語る「量る秤」とは、何が正しい律法であるのか、とか、人間のもつ秤が主の秤に叶っているかどうか等の
議論とは違う。
ここでイエスが突きつけていることばは、「様々なことを勝手に法として決め、
人々に押しつけてくるのは誰だ」ということだろう。
“量る秤を持っている者たちは更に富み、量る秤を持てない者たちは更に奪われている”という
時の本質を突きつけていると思われる。
今風に言えば、司法、立法(律法)、行政を手にしている者たち、民たちを恣意的に支配できる者たちが、
自分たちの目には丸太が入っているくせに、民たちの目にはゴミが入っているなどと民を裁こうとする。
民たちを量る、その秤で自分たちを量ろうなどとは決してしない。
まさに全体主義国家を目指している現代社会の為政者たちの姿と重なる。
「民主主義は間違っている」などと公言してはばからない為政者たちも目立ち始めている。
「強い軍事国家でなければ、国を守れない」と富国強兵を目指した明治政府の姿に戻ろうとしてる。
もはや、私たち市井の民たちは、国家が管理する「ライフライン」に必死にしがみつき、
病院のベッドの上で体中をライフラインの「チューブ」に繋がれ、
生命与奪権をもつ医師に延命措置をお願いする権利を確保しようとしている患者の姿にも思える。
あの戦時下において、天皇を中心とした軍事国家に「No」を表現できたキリスト者はほんの一握りだった。
今という時代、私たちは「奪われている者たち」から目を背け、大きな力、長いものに自分から巻かれながら、
保身をはかるところから一歩外れることはできないのだろうか。
○先週の出来事
堺市から東淀川教会に通ってこられていた間瀬絹代さんが、千里の方へ無事引っ越しされました。
◎天皇と臣民の関係を民に唱えさせる「教育勅語」の復活を文科省担当大臣が示唆した、国民総動員体制を夢見るお馬鹿さんたちがなぜこんなに元気なのだろう?