東淀川教会20181111礼拝 詩編90:10-17 マルコ福音書1:29-34 司式・宣教 牧仕 金田恆孝
旧約聖書 詩編90篇10-17節
われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。
しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。
だれがあなたの怒りの力を知るでしょうか。だれがあなたの憤りを知るでしょうか。
われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。
主よ、み心を変えてください。いつまでお怒りになるのですか。あなたのしもべをあわれんでください。
あしたに、あなたのいつくしみをもってわれらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください。
あなたがわれらを苦しめられた多くの日と、われらが災にあった多くの年とに比べて、
われらを楽しませてください。
あなたのみわざを、あなたのしもべらに、あなたの栄光を、その子らにあらわしてください。
われらの神、主の恵みを、われらの上にくだし、われらの手のわざを、われらの上に栄えさせてください。
われらの手のわざを栄えさせてください。
新約聖書 マルコ福音書1章29-34節
それから会堂を出るとすぐ、ヤコブとヨハネとを連れて、シモンとアンデレとの家にはいって行かれた。
ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせた。
イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き、女は彼らをもてなした。
夕暮になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。
こうして、町中の者が戸口に集まった。
イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。
また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。
宣教題「両刃の剣」(要旨)
「Each for One ,One for Each」とか「 Oll for one, one for Oll というフレーズがある。「すべては一人のために、一人はすべてのために」
一見、個人主義と全体主義を調和させているような、良さげな言葉だが、
実はこれは軍隊やチームスポーツの中で用いられてきた言葉らしい。
個人は隊・チームのために全精力を傾け、チームは個々人の動きや心の動きを計り、全体でそれを支えなければ隊として、チームとして成り立たない。
自分のチームの誰かが相手からやられたら、その人の分も加えてやり返さなければならない。「個」は隊やチームから自分の意思で離れることは許されない。
要は「一致団結」のための美辞麗句にすぎない。「一致団結できる者」だけを対象としている。
ハンディ・重荷を負う隣人がいる。それが肉体的であれ、精神的であれ、貧困や差別や法や社会的なものであれ、重荷を分かち合って一緒に生きようとするのが健康的な社会である証だろう。
本来の重荷の分かち合い、助け合いは、例えば「ボランティア活動」などと言わなくても、身近な人々、知り合いの人々によってさりげなく行われるものなのだろう。以前にいた「尼崎教会」では、地域の社会弱者への活動を、この「ボランティア」というコトバに抵抗感がある方々がいて、「助っ人活動」を用いていた。慧眼である。
重荷を負う人の「重荷、痛み」が感じられる人々、Eachが、その人とともにいきるために、できる範囲で心を配ること。こっちのフレーズの方がはるかに良い。「弱者ではない私たちが一致団結して弱者のためにボランティア活動をしましょう!」という「おおぜい」の姿勢・「かまえ」に怖さを感じる。
現在は歩道の多くが舗装されてしまっているが、道は本来でこぼこ凸凹である。人生の道は必ず凸凹である。人間も必ず凸凹だろう。凸凹の人間が凸凹の道を歩むしかないのならば、凸凹同士がともに旅をするために、各々の自己責任でさりげなく手を出し合うのは自然なことと思われる。失われた自然な関係を回復していくこと。それは詩編90篇「われらの神、主の恵みを、われらの上にくだし、われらの手のわざを、われらの上に栄えさせてください。われらの手のわざを栄えさせてください。」の祈りそのものだと思う。
イエスの癒しのわざは、凸凹な私たちを、自然な苦労の分かち合いができる方向を指し示してくださっていると感じられる。
「
「Oll for one, one for Oll 」。なのに、あなたは周囲への気配りができない。空気が読めない。勝手すぎる…などと言われると強い恐怖感がADHDなわたしを襲う。わたしだけではなく、学校でもっと強烈な恐怖感に苛まれている子供たちの現実がある。
顔認証システムなどコンピュータシステムの情報処理能力がアップするとともに住居の玄関やらエレベータやら駅やら高速道路やら町の中あちこちに張り巡らされている。カメラ装置、商品の購入記録、ローンの返済状況、前科、病院の受信記録などの「総監視ネットワーク」システムはほぼ完成しつつあると思われる。しかもそれが “あなたのため” “犯罪予防のため”「全体は個人のため」などといわれると、一見「きれいっぽい言葉ほど怖いものはない」と感じる昨今。
その指導、心理誘導の危うさをを明らかにすることは「信仰の働き」のはずである。
○先週の出来事
俳優だった中村敦夫氏が、頼まれて各地の小さな集会所のようなところで「朗読劇」を行っている。テレビ番組で接することができた。「原発検査技師だった男」の告白、放射能によって苦しめられている側にたった、平易なことばで、重たい、今も多くの人々に重荷を負わせている現実を告発し続けている。
目立って売れてなんぼの芸能人やマスメディア、金のためならどんなチンドン屋にもなれるゲーノージンからは一線を画する存在感を感じた。