東淀川教会20181118礼拝 ダニエル書7:9-11 ルカ福音書9:57-62 司式・宣教 金田恆孝

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聖書 Danielhe ダニエル書7章9-11節

わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。
彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。
わたしは、その角の語る大いなる言葉の声がするので見ていたが、わたしが見ている間にその獣は殺され、そのからだはそこなわれて、燃える火に投げ入れられた。

新約聖書 ルカ福音書9章57-62節
9-57 道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、
「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。
9-58 イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。
9-59 またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。
9-60 彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。
あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。
9-61 またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。
9-62 イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。

宣教題{死者に死者を葬らせよ」(宣教要旨)
ダニエル書はおよそ紀元前2世紀頃に青年ダニエルに与えられた幻に依るとされる。聖書外典の「アザリアの祈り…」「スザンナ」「ベルと竜」もダニエルに依るものとされ、黙示・幻視が基礎にある。
  ダニエル書7章では4つの獣が登場する。
1.翼が抜け落ち2本足で餌を求める獅子。 2.人間の三本の肋骨を加える(人を喰う)熊。3.4つの頭4つの翼(巨大な力)を持つ豹(支配者)。4.10の角と眼と口を備え戦車のごとくすべてを踏み潰す破壊獣。

 これらは、神を忘れ、争い、収奪、支配に明け暮れ、世の滅びに向かう人間の歴史を獣の変遷で表わし、ついに滅びに至る、悪しき人間の歴史を示している。
「人」が滅んだ後に登場するのが「老賢人」。神から世の支配を委ねられた「人の子のような者」。 この世の「人」ではない、新しい「者」が現れる。
来るべき終末は世々の人たちが自ら手繰り寄せたものでしかない。
福音書でイエスが自身のこととして語る「人の子」は、預言者ダニエルが指し示した「人の子のような者」を受け継いでいると思われる。謂わば括弧付きの「人の子」であろう。

 イエスにどこまでも従うと宣言した者に対し、(なんら社会的保証もない)ただの「人の子(のような者)には、(社会的保証がある) 人が求める家庭の団らんも安息も安全も得られず、自らの死の床を用意することすらできない。
ひたすら、神によって引き上げられるまで、走り続ける、神に用いられ続けるしかない、とイエスとの旅が何であるかをイエス自身が指し示していると思われる。
それ故、身近だった者の葬りは、生きている者たちの、自分たちを慰めるための行為であり、死者の霊は生きており、その行く末は他の死者の霊に任せよ。
振り返って別れの名残を惜しむのは自分の未練心、自己愛を慰めるための行いでしかなく、前に向かって進む、神にひたすら用いられることを怠けるための口実でしかない、とイエスは語っているように感じられる。

 イエスの語りは、人間の弱さ、愚かさを認め合い、許し合う、 慰め合うという意味での「人間らしさ」には、完全に背を向けていると思う。

世の終末を先延ばししてほしいと願う祈りではなく、
むしろ終末を引き寄せるための旅をしているように感じられる。

○先週の出来事
 医学部入試試験で、大学側がこれまでの男子偏重を改め、男女を平等に採点すると発表。しかし、医師の子息偏重は残す、と堂々と発表。 病院や医師からの寄付金を当てにして何が悪い…「職人組合」あっての「職人づくり」なのだ…現場(病院)・現職への忖度なしに職人養成工場は成り立たないのだ…、って感じ?でも、親から医療職人としての知識や技術を学んで医者になる子っている?

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