東淀川教会20181223クリスマス礼拝 イザヤ53:1-10 ルカ4:17-29 司式 金田恆孝
旧約聖書 Isaiah イザヤ書53章 ルカ4:17-29
53-1 Who hath believed our message? and to whom hath the arm of Jehovah been revealed?
だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕はだれにあらわれたか。
53-2 For he grew up before him as a tender plant, and as a root out of a dry ground: he hath no form nor comeliness; and when we see him, there is no beauty that we should desire him.
彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
53-3 He was despised, and rejected of men; a man of sorrows, and acquainted with grief: and as one from whom men hide their face he was despised; and we esteemed him not.
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53-10 Yet it pleased Jehovah to bruise him; he hath put him to grief: when thou shalt make his soul an offering for sin, he shall see his seed, he shall prolong his days, and the pleasure of Jehovah shall prosper in his hand.
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
新約聖書 Luke ルカ福音書4:17-19
4-17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
4-18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
4-19 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。
4-21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。
4-27 And there were many lepers in Israel in the time of Elisha the prophet; and none of them was cleansed, but only Naaman the Syrian.
また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。
4-28 And they were all filled with wrath in the synagogue, as they heard these things;
会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、
4-29 and they rose up, and cast him forth out of the city, and led him unto the brow of the hill whereon their city was built, that they might throw him down headlong.
立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。
2018年のクリスマス・降誕祭を迎えました。
クリスマスは元来の“冬至の祭り”にイエス誕生伝承を重ねたものです。日照時間が一年で最も短い時を、古い四季が滅んで新しい四季が始まる、古い時が死に、新たな季節の始まる時を記念して行われる祭りは世界各地で見られ、日本でも古来より霜月の祭りとして、湯立てなどが行われるようです。
主イエスの最初のメッセージ“悔い改めよ 神の国は近づいた”の「神の国」は何でしょう。
排他的な民族セクトである「人の国」は戦力や財力で領土や資源を奪い合い、強者と弱者のピラミッドを造り、最下層に病者、過ちを犯した者、精神や身体にハンディを負う者、被差別者、非国民などを生み出していく。そんな人の「国」は終わり、世界中が国境、領土を廃止し、誰もが自由に往来できる一つの国になるのだ、というのが「神の国」の意味だろう。
イエスに従うキリスト者の「世界中がひとつになりますように」という祈りはここに由来する。
個人情報が隅々まで監視され、凸凹を持つ人の「重さ」が限りなく軽く扱われ、天からの恵みも労働も人間も商品化されていく時代。最も高価な商品は武器となった。
「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」イザヤ書2章4-5節の希望は、「国」よりも重い、神の似姿、神に生かされる「ひと」の重さを取り戻す希望である。
わたしたち各々の手前勝手な祈りや予測をうらぎるように、神の業がすすむのでしょう。
イエスがこの世に現れたことを、神の業として喜ぶクリスマスのこの時。あらためてこの希望を、時を超えて心に刻み直したい。
メリークリスマス!
○先週の出来事
除夜の鐘ならぬゴーン騒動が、更に混迷を深めるであろう2019年を象徴している。東映の『仁義なき戦い』以上に、どこに「義」があるのかわからない、エグい国際的な主導権争いの一端の、虚像のみを見せつけられているように感じる。