東淀川教会20181230礼拝 イザヤ58:4-12 マルコ2:13-17 司式 牧仕 金田恆孝

Pocket

このエントリーをはてなブックマークに追加

旧約聖書 Isaiah イザヤ書 58章4-12節
見よ、あなたがたの断食するのは、ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしをもって人を打つためだ。きょう、あなたがたのなす断食は、その声を上に聞えさせるものではない。
このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか。人がおのれを苦しめる日であろうか。そのこうべを葦のように伏せ、そのこうべを葦のように伏せ、荒布と灰とをその下に敷くことであろうか。主に受けいれられる日と、となえるであろうか。
わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。
そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。
また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、
飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。
主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。
あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と呼ぶようになる。

  新約聖書 Mark マルコ福音書2章13-17節
 イエスはまた海べに出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。
 また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。
 それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。
 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 宣教「人と人とを切り分ける悪霊」 (要旨)
 古代には「宗教」という概念はなかった。古代の神殿を中心とする、現代からユダヤ教の律法と呼ばれるキマリは、法律、納税義務、或いは右側通行のような、従わないと、許される「普通の人」でいられなくなるものだった。断食の規則は、その本来の意味や目的とは関係なく、日々の、誰もが守らなければならないものだったらしい。

「私はちゃんと律法・断食を守っている」と自負し傲慢になってしまった上層階級の人々に、イザヤという預言者を通して厳しい言葉が放たれた。
「おまえたちの断食はすでに悔い改めのしるしとしての意味を失っている。おまえたちがなすべきことは、倉庫に積み上げてある有り余った食料を、日々の食べ物に困っている人々に。神の御心として受け取っていただき、食料の独占・貧富の格差を解消していくことではないか。それが神の栄光を顕すことであろう」と。

 古代ローマ帝国は、占領した周辺諸国のみかじめ料を容赦なく取り立てる徴税の仕事を、ローマに対する反発を緩和するため、それぞれの地方の「下層民」を使って取り立てていた。収税所は占領国ローマの出張所でもあった。そこで働き生活の糧を得ることは「呪われた仕事」だった。銭のためと割り切って嫌われ役を引き受ける者もいたが、自分の魂が滅んでいく苦しみを味わっている者もいた。イエスが声をかけたアルパヨ(アルファイ)の子レビ(後のマタイ)に「来る?」と声をかけられた。魂の救済を求めていただろう彼はすぐその仕事から足を洗い、イエスを自分の家に招き、自分と同様に魂の救済を求めている同業者、前科者と呼ばれ続けている者たちを招き、食事会、神の前で行う「直会・なおらい」を行った。
律法違反の監視人、ファリサイ派の者の、イエス一派に対する非難に対し「神が招いているのは丸印の者たちではなく×印の者である。わたしはその招きのわざに仕えるためにここにいる」旨の宣言をした。
 現代、イエスのことばを「政教分離」という概念と同様、現実とは別次元、信仰という別世界の言葉として頭で解釈してしまうことは、王権神授説と同様、支配者の精神安定剤的信仰なのだろう。

○先週の出来事
 NHKをはじめ、マスコミによる“天皇こそ日本の良心”とか“天皇を中心とした日本人としての誇りを持とう”みたいな心理誘導・マインドコントロールが盛んになっている。年末の更なる二名への死刑執行は、来年の即位礼(なぜこれが国事行為か不明)の前の「露払い」だったのだろうか。それとも武尊即位のために求められた「生け贄」なのだろうか。 いずれにせよ人権を実現していく民主主義という理念が更にその内実を失っていると感じられる年末。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です