東淀川教会20190127礼拝イザヤ59:10哀歌4:14マルコ10:46-52 司式・牧仕 金田恆孝

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旧約聖書izayaイザヤ書59章10節
59-10 We grope for the wall like the blind; yea, we grope as they that have no eyes: we stumble at noonday as in the twilight; among them that are lusty we are as dead men. われわれは盲人のように、かきを手さぐりゆき、目のない者のように手さぐりゆき、真昼でも、たそがれのようにつまずき、強壮な者の中にあっても死人のようだ。

哀歌 4章 14節
4-14 They wander as blind men in the streets, they are polluted with blood,So that men cannot touch their garments. 彼らは盲人のように、ちまたにさまよい、血で汚れている。だれもその衣にさわることができない。

新約聖書マルコ福音書10章46~52節
10-46 And they come to Jericho: and as he went out from Jericho, with his disciples and a great multitude, the son of Timaeus, Bartimaeus, a blind beggar, was sitting by the way side.
それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10-47 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。
10-48 . 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
10-49 イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。
10-50 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
10-51 And Jesus answered him, and said, What wilt thou that I should do unto thee? And the blind man said unto him, Rabboni, that I may receive my sight.
イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。
10-52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。

 聖書から聴く  主題「みんな目が暗いのだ」
二人の盲人、の二人とは、我々の内なる盲人…… を表すと思われる。
差別用語という現代神話に基づく現代律法 ちんば つんぼ かたわ めくら きちがい 知恵遅れなどなどが法律ではなく律法で(NHKで)規定される。
本来、端的な言葉で、違いを表わして理解する言葉。きちがいは、気が違うから気が合わないだけだ、という理解。盲人、メクラ… 決して 人を馬鹿にした言葉ではない。「あの人は 眼が 夜中みたいに暗いんだよ」というメッセージ。メクラという言葉を聞いて「禁止すべき言葉だ」と感じる感覚は、「普通以下の人々」を差別する側の社会を支えている人間であることを自ら証明している。
大衆的なイメージ(偉い人々・普通の人々・普通以下の人々という三層構造)があり、自分は普通、中流だと思いたがるのが大衆。
現代社会は、多くの人々がテレビジョンで「世界が見えている」という勘違いを起こしやすい。

イザヤ書であれ哀歌であれ、その後の預言者たちであれ、盲人は、見えないのに見えると言い張る 人々を象徴していた。預言者たちを通して「我々が本当は盲人なんだ、見えているようで、何も見えていないんだ」ということを受け取り、見えていないのに見えているつもりになることがどれほど愚かなことであるか、を理解するきっかけとなっている。
何が見えていないのかを明らかにし解説するのは王や学者や評論家や様々な指導者ではない。祈り、神との対話から示されることであり、預言者(とりつぎびと とりなしびと)を通して示される。イザヤたち、とりつぎびとが語ったメシア像は、最大のとりつぎ・とりなしびとが来ることであり、世のしんがりを守ってくださる神さまの御心を引き受けられるメシア像であった。人々がイエスこそイザヤたちが語ったメシアであると誰も恐れず語り始めたのはイエスの十字架事件以後であった。

○先週の出来事(気になるニュース)
千葉県野田市の小学4年生の女児(10)が自宅で死亡という事件。一年前に女児自身の訴えで児童相談所に一時保護されていたらしい。行政による親子の引き離しがあったことは、親が推定有罪という大恥をかかされたことでもある。その後の仕返し、虐待を防ぐ役割の第一責任は警察にあるのではないか。民事と刑事を分け、犯罪予防のために働かない警察のあり方そのものが問われるべきと思う。

 

 

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