東淀川教会20190120礼拝 イザヤ38:17-22マルコ5:38-43 司式・牧仕 金田恆孝

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旧約聖書izayaiイザヤ書38章17-22節
1 そのころヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。アモツの子預言者イザヤは彼のところに来て言った、「主はこう仰せられます、あなたの家を整えておきなさい。あなたは死にます、生きながらえることはできません」。
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17 見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。あなたはわが命を引きとめて、滅びの穴をまぬかれさせられた。これは、あなたがわが罪をことごとく、あなたの後に捨てられたからである。
18 陰府は、あなたに感謝することはできない。死はあなたをさんびすることはできない。墓にくだる者は、あなたのまことを望むことはできない。
19 ただ生ける者、生ける者のみ、きょう、わたしがするように、あなたに感謝する。父はあなたのまことを、その子らに知らせる。
20 主はわたしを救われる。われわれは世にあるかぎり、主の家で琴にあわせて、歌をうたおう。
21 イザヤは言った、「干いちじくのひとかたまりを持ってこさせ、それを腫物につけなさい。そうすれば直るでしょう」。
22 ヒゼキヤはまた言った、「わたしが主の家に上ることについて、どんなしるしがありましょうか」。

新約聖書markマルコ福音書 5章38-43節
38 彼らが会堂司の家に着くと、イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいるのをごらんになり、
39 内にはいって、彼らに言われた、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。
40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいる所にはいって行かれた。
41 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。
42 すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。
43 イエスは、だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。

応唱 我らの祈り(Our pray)
全ての始まりであり 終わりであり   唯一であり 全てであり
今という時の主であり 永遠の主であり
神の息から始まり 神に帰る「いのち」の主であり
全ての闇を明らかにする  まことの光である神さま
『聖なる 聖なる 聖なる主よ』 ×3回 (holy)

聖母マリアを通して我らに与えられた救い主キリスト・イエス
その十字架の元に集うことができたことを感謝致します
『主の恩寵(おんちょう)に感謝』×3回 (grace)

私は「言葉」と「思い」と「行い」によって多くの罪を犯し
心を頑なにし 傲慢であったこと
自分自身を愛する如く  隣人を愛せなかったことを告白致します
『我が罪を赦し給え』×3 (forgive my sins)

主の求める生け贄は 打ち砕かれたこころ 主は悔い改め 帰ってきた
放蕩息子を受け入れ あなたの御国を思い出した盗賊を捨てられず
罪を告白した者を友とし 汚れ疲れた心を洗い
新しい霊を注いでくださいました  主のあわれみに感謝します
『主よ憐れみ給え キリストよ憐れみ給え』×3回   (Mercy)

いと高きところに栄光神にあれ 地にある神の民に平和あれ
我らの主 天にいます主 全能の父なる神よ
神の一人子 救い主キリスト・イエスよ
神の御ちからであり 神の息である聖霊よ
あなたを崇め あなたに感謝し 讃美します
『グローリア グローリア グローリア』 (gloria)×3回 Amen

聖書から聴く  主題「神と顔を合わせるとき」
ヒゼキヤという南ユダ王国の王様は、強い王様にはなれなかったが、優しい王様だったらしい。王様にさせられた時期もまずかった。北のアッシリア王国が南の国々を占領国にしようと南下してきた。それに力で対抗しようとせず、南のエジプト王国と手を組もうとしたり、敵に賄賂を送ったり。が、政治的な駆け引きはまったく駄目な王だった。しかしイスラエル民族を導いてきたヤーウェへの信仰だけは捨てなかったことと、民衆のための治水工事をやりきった王だった。そのヒゼキヤが死に直面したときの予言者イザヤとのやりとり、告白の部分である。
イスラエルには、神の顔を見るときは死ぬとき、という古くからの言い伝えがある。
ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。創世記32:31
生と死の境界線でまさに神と向き合うのだろう。神と直接、どう向き合うか。それは私たち一人一人の、実は最も重要な課題である。ここにイザヤが王ヒゼキヤと神との顔合わせに立ち会ったときの、とりなしのわざが見えてくる。ヒゼキヤは、民衆を力でリードする王にはなれなかったが、ひたすら争いを避け、どんなに不格好でも、神によってのみ生かされる道を示し続けた王と言える。
12年間流血に苦しんできた女性を癒やしたあとの12歳の少女の生死に立ち会ったイエス。弟子すら限定した臨床の場で何が行われたかは不明だが、はっきりと伝えられている言葉は「タリタ、クミ」との宣言だった。「戻ってきなさい。戻ってきたら自分で起きなさい」そんなメッセージに感じられる。ただ、そのメッセージの前に、この少女の、神との直面、そこでの神との対話にイエスが立ち会ったのだと思われる。

はっきりと自分の「最後の課題」を見極め、それに全精力を注ぐために祈るとき、神は御顔を現し、祈りに必ず応えてくださる。究極の希望である。

○先週の出来事(気になるニュース)
インフルエンザが猛威を振るい、学級閉鎖が続いている、とのニュース。戦争で人々が死んでいくよりも、伝染病などの病気で死ぬ方がまだ人間性を保てるかな、などと考えてしまう。

 

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