20190616 三位一体主日 Holy Trinity Sunday 宣教要旨 

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Praise1.546(聖なるかな) Lord’s Prayer主の祈り hymn 1.217 天つ真清水 congregation prayer(交唱) hymn 1.228 ガリラヤの風薫る sermon「天からのしるしは隠されてる」 hymn 1.243ああ主の瞳眼差しよ .Holy communion0.79御前に我ら集い donation 0・64まごころこめ doxology 0.29天のみ民も Blessing postlude 0・40・6(Amen)

旧約聖書 イザヤ書6章
9 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。
10 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。
イザヤ書20章1?4節
アッスリヤの王サルゴンからつかわされた最高司令官がアシドドに来て、これを攻め、これを取った年、
その時に主はアモツの子イザヤによって語って言われた、「さあ、あなたの腰から荒布を解き、足からくつを脱ぎなさい」。そこでイザヤはそのようにし、裸、はだしで(三年間)歩いた。

新約聖書 マルコ福音書3章21-23節
身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。
また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。
そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。

マルコ福音書8章10-12節
すぐ弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた。パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。
イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。

聖書から聴く 主題「天からのしるしは隠されている」 宣教要旨

新約聖書には聖霊、悪霊などのことばがよく用いられる。マルコによる福音書三章では「あらゆる罪は赦される。しかし聖霊を汚す者はいつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」とあるが、実はマルコ福音書のイエスの言葉として「悪霊」は少なく、多いのは「汚れた霊」。

マタイやルカ福音書では、善悪二元論、悪霊の概念と聖霊の概念が強調されて表現されている。原始キリスト教団が成立していく過程で、聖霊と悪霊、神側とサタン側という善悪二元論的教義が集団的アイデンティティ、宗派的セクト的優越性を構築していくために不可欠のものとして求められていたと思われる。

「パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた」とは、パリサイ派はイエスたちを誤りとして攻撃し、自分たちの優越性・正しさを証明するために、天からのしるしをイエスに求めた。「お前たちのやっていることが正しいというなら、その証明、しるしを示せ!と。

「この時代、天からのしるしはあたえられない」とのイエスの言葉は、イザヤの「あなたがたは聞いても悟ってはならない くりかえし見ても理解してはならない」のメッセージと重なって聞こえる。
みずからの言葉と行いと思いとが正しいのであり、神様のみこころから離れているとはみじんにも思っていない人々にいくら神様のみこころ、わざをともに求めようとしても、まさに「豚に真珠」であり、みずからのプライドに適わないものと判断すれば足で踏みにじって攻撃してくる。

現存する神への畏れを失い、神の導きを忘れ、指導者を神の選びに依らず、血縁による王位継承権を神格化し、王への不満で兄弟たちが争い、国を分裂させ、謀略策謀暗殺、戦争を繰り返し、自分たちの客観的な「義」を大事にし、まことの神を求めなくなっていることに気がつかない。もはや悔い改めるためのきっかけすら失っていた。
自らの罪、過ちを告白し、赦しを求め、生ける神の御心を尋ね求める信仰を失い、ヤコブの民の末裔、選ばれたイスラエルの民を自称している民に、聞け、しかし悟ってはならない、見よ、しかし理解してはならない、と告げよとイザヤに命じます。

イザヤが裸、裸足になって長期間、歩き回ってその姿をさらし続けたのは、「愚かさを悔いることなく繰り返しているわれらは滅んでいくことを受け入れよう。神の我らへの怒りを受け入れ、われらはわれらの罪、惨めさ、愚かさ、みっともなさとともに主なる神の怒りをうけいれようではないか」というメッセージであり、その姿こそ神様からのしるしであったのです。また、イザヤが子どもの名前に「われらはすばやくうばわれかすめとられる」という名前をつけたのも神様からの「しるし」を表現しているのですが、人々はそれを「神のしるし」として受け止めようとしなかった。神のしるしを「理解したつもり、分かったつもり」になっている民たちは、必ず何が善であり、何が悪であるか、何が聖霊であり何が悪霊であるかの教義を自分たちで組み立て始める。自分たちこそ神側の人間であることを確証するためのガイドラインを作り始める。イエスの「この時代の人々に神のしるしは与えられていない」とのメッセージも同じ内容なのでしょう。

バプテスマを受けたイエスの、「神の国」宣教につづく「悔い改めよ」の言葉は、各々がどれほど神の御心から離れているか、神の御心を求めなくなっているか、各々がかってに「神のしるし」を作り上げているか、義人ぶっているか、とても厳しい神の言葉が投げかけられているのですが、現代のわたしたちを含め、人々はまことの悔い改めからは程遠い生き物なのです。

20世紀、先進諸国ではなく、後進諸国、人間の命の重さが非常に軽くされている地域に働くキリスト者の中から「解放の神学」が始まりました。解放の神学の基礎にあるのは、「われわれは悔い改めようではないか」という呼びかけがその中心にあります。が、ローマカトリック教会も、プロテスタント教会も、自らの悔い改めよりも組織的な、セクト的な優越性、選民性の上に立っているのだと感じます。

○先週の出来事(気になるニュース)
香港で100万人以上が参加したという大規模デモ。現代中国の一党独裁、反論や内心の自由すら許さない全体主義体制に香港住民すべてが巻き込まれていく恐怖が人々をデモへ駆り立てていると感じる。中国国内でこのデモに呼応する動きも出てきてほしいと願う。
日本の年金問題で麻生太郎・副総理兼金融担当相が「誤解や不安を招く表現であり、不適切」云々。言い換えれば、「国民が不安になる事実は隠しておくべき」と聞こえる。原発事故の放射能被害についても同じ姿勢を感じる。日本も中国に近づいている?

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