「セクト」 村々 江戸時代迄の「国」に戻せたら
2019年7月24日
2019年10月22日
この国の「政治」はセクトによって決まる
選挙のたびに「やはり行きたくない」と思う。票はほとんど、地域セクト、宗派セクト、トリクルダウンセクト(利益下請け共同体)。企業セクト、氏族セクト(表に出ない一族)などでほぼ決まっている。選挙速報も各セクトの動きを読んだうえで、セクト以外の時流に漂う浮動票の「読」に集中するだけで的中してしまう。
カルトなどと呼ばれている熱狂的集団の強引な勧誘やら、マインドコントロールなどと称される強引な心理誘導方法をみていると、そこに惹かれている人々の求めている根底に「村」があると感じる。現代ではかなり崩壊してしまっているが、この地に住む人々の心理的根底では、やはり目には見えなくても「村・村々」や、村に代わる組織、共同体、人間関係を求めている。
明治以降の、強い軍事国家という理想は「八紘一宇」とともに砕けた(復活を願う人々も多い)が、廃藩置県を基礎としたひとつの民主的「国家」イメージは、標準語を決めてもNHKが「日本の姿」をどれほどPRしても、村や村々に代わる共同体意識は持てなかったと思われる。
ドイツ社会主義者ラサールの「国家に与えられた任務は、そこに住む民が安心して寝られるための夜警任務だけに限定すべき」(満田正氏より1971年に学ぶ)には激しく同意。
国家・国概念を血肉に近いものとして取り戻すには、いったん、江戸時代までの阿波国吉備国越国信濃国など68諸国、蝦夷と琉球が同意すれば70の国々に戻るべきである。
無理矢理統一国家、統合の象徴として貼り付けた「天皇教」を、伊勢信仰と同様、民間の宗教団体に戻すべきである。
移動の自由を前提とした地理的な「村・村々」を取り戻せたとき、住民は直接民主制を、主権を取り戻せると思われる。
ただの“絵空事”と言われそう。