190901 宣教要旨 レビ記19:14 マルコ福音書7:31-37「一心同体で神を呼ぶ」宣教 金田恆孝

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聖霊降臨節第13主日礼拝
旧約聖書 レビ記19章14節Leviticus
14 耳しいを、のろってはならない。目しいの前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。

新約聖書 マルコ福音書7章31-37節
7:31 それから、イエスはまたツロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海べにこられた。

7:32 すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。

7:33 そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、

7:34天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。

7:35すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。

7:36イエスは、この事をだれにも言ってはならぬと、人々に口止めをされたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめた。

7:37 彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。

聖書から聴く 主題「一心同体で神を呼ぶ」

レビ記では、視覚機能、聴覚機能、発音機能などに問題がある人を、どうせ聞こえないだろうと、馬鹿にするような罵声を浴びせる、からかう、盲人の前に障害物を置いて、避けられるかどうかを試す、などの行為を厳しい戒めとして禁止している。
北の方からガリラヤ湖に帰ってきたイエスのもとに、聴覚機能が働かない、発声が困難な人を連れてきて、「手を置いて祈ってやってください」とのお願いをされる。
「イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し」とあります。イエスは本人を連れてきた人々や、まわりの群衆から本人を連れだし、分けました。
もしも、「奇跡」を起こして、人々の関心を誘い、自分に追従させる、自分たちの組織に入れさせる、などの意図があれば、積極的に群衆の真ん中で行う方が影響力も大きく、人集めに能率がいい。人々もまた「奇跡」を求める。仕込みも種もない、手品以上の者を人々は求める。
そこから完全に離れた場所に赴き、この世の時間とはまったく異なる空間と時間を作り出したのです。

「その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、」ハンディ、大きな問題を抱えている本人とイエスが「ひとつの身体」になろうとしているように思われます。

負っているハンディゆえに、社会、人間関係から閉ざされている。はじかれている、疎外されている、そんな本人と一つになって、閉ざされた関係、閉ざされた心を開いてください、と神に祈ります。
これって、昨今話題になっている「オープンダイアローグ」と同じだと感じます。

人々の「奇跡を求める心」について、「奇跡」をもって「信じたがるこころ」について、改めて考えたいと思います。

○先週の出来事(気になるニュース)
なぜ離婚すると、ほとんど親権は母だけに移るのでしょうか。
父子家庭よりも母子家庭だけが目立ちます。
「子どもには母親が必要」というならば、やはり「両方」必要でしょう。
「虐待」や「暴力」の文字がニュースの中に繰り返されますが、男の側の加害性ばかりではなく、女の側の加害性もあります。精神的な「親」になれない男もいれば女もいます。養父養母を子が選ぶことができることは子がより守られる環境に近づくと思われますが、法的にどちらかの親権を国家が取り上げること自体が「いびつさ」を生み出すと思うのです。

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