190825 宣教要旨 ハガルの嘆き マルコ7:24-30「子育ての光と影」宣教 金田恆孝

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聖霊降臨節第13主日礼拝
旧約聖書 ハガルの嘆き 詩: シュッキング (Clemens August Schucking,1759-1790)
曲: シューベルト (Franz Peter Schubertドイツ )

Hier am Hügel heißen Sandes
Sitz’ ich,und mir gegenüber
Liegt mein sterbend Kind,
Lechzt nach einem Tropfen Wasser
Lechzt und ringt schon mit dem Tode,
Weint und blickt mit stieren Augen
Mich bedrängte Mutter an. …

この熱い砂の丘の上に 私は座り 向かい合っている
死に行こうと横たわっているわが子と。
一滴の水を渇望し 渇望しつつ死と戦っている
泣きながら じっとその目で この悲しむ母を見つめているわが子と
お前は死ぬ定め お前は死ぬ定め 哀れな幼子よ
ああ 一滴の涙も私の渇いた目には浮かんでこない
それで渇きを癒してあげることもできたでしょうに
ああ もしも獅子の母に会ったなら戦うでしょうに
その乳の一滴であっても得ることができたなら
この渇いた砂からほんの一滴の水を吸うことができたら…
けれどああ!お前が死ぬのを見なければならぬのです!
命のかぼそい光さえ頬の上で弱まってゆき
力ない目の中で弱まって その胸はほとんど動かなくなってしまう
この胸に来て そして果てるのです!
もしも誰かがこの荒野を通って来たならば彼は砂の中に私たちを埋め  言うのでしょう「これは母と子なのだろう」と
私はお前から離れてしまいたい。おまえが死ぬのを見ないように 絶望の狂乱で神を責めたりしないように!
お前のもとから遠く離れたいのです
そして心からの嘆きの歌を歌いたい。 お前がまだ死との戦いにあるうちに その声が慰めに聞こえるように 最後の嘆きの祈りのだめだけに
神よ、主よ、この願いを拒まないでください この穢れなき子の願いを!…

新約聖書 マルコ福音書7章24-30節
イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

聖書から聴く 主題「子育ての光と陰」
本日の「フェニキアの女」の箇所は、ギリシャ人、異邦人の女が自分の娘の悪霊を追い出してほしいとイエスに願い、イエスは「わたしはユダヤ人のために遣わされている」「異邦人にまで手が回らない=神の子であるユダヤ人の恵みを、異邦人=子犬に与えるわけにはいかない」と答えたのに対し、女が「子犬でもこぼれ落ちた恵みは受け取れるはず」と答え、その答えに感心したイエスにより女の子が癒やされ、ここからユダヤ人と異邦人の区別がなくなり、異邦人への福音が伝えられることになった、云々の解釈が為される箇所である。が、以前からこの伝統的な解釈に違和感があった。マルコ自身がそのように理解していたのか? 「わたしは神からユダヤ人に遣わされている」などとイエスが言ったのか?

ここを「今は昔」風に読み解いてみる。「子どものパンを子犬に与える女」すなわち、ハンディを負う子どもの育児が思うようにならず、母は「女としての自分の幸福を求めたっていいじゃないか」とばかりにネグレクト・子育てもせず己の幸福を追いかけていた。マルコはイエスの口を借りて「子どものパンを取って子犬に与える母」だと、この女のことを説明していると解することができる。子どもにとってあんたは唯一の親なんだから逃げちゃだめだよ」とのイエスの言葉に対し、「あたしがあたしの幸せを求める権利だってあるはず。子どもの犠牲になるしかないなんておかしい」と応答したとも考えられる。「それほど言うならもういい」(聖書によって訳し方にばらつきがある)とは、「もうあなたには子どもを任せられない」と、神様に直接、女から育児放棄された子どもの守りを祈ったために、この女の子は家の中のネグレクトから解放され、外の様々な人々の支援を受けながら成長することができるようになった、と解することも可能である。
アブラハムの妻サラから追い出され、死にかけている子どもから離れて絶望の中で神に祈る母ハガルの祈りと並べて読んでみるとき、神に祈る以外の術を見いだせない母たる存在のやるせなさ、母の育児放棄を責められないやるせなさがどちらからもあふれ出している。イエスとともに神にお願いするしかない場面が現代も途切れなく続いている。

○先週の出来事(気になるニュース)
パラリンピックのドラマ、宣伝、24時間テレビ番組などがとても目につく。「我々日本人はとてもヒューマンな演歌好きの民族なのだ」と内外ともにPR、心理誘導しようとしている感がある。こういう心理操作に日本人はとても弱い。一方では「障害者」自立支援金など福祉予算がどんどん削られ、優秀で、企業で使える障害者と、企業で使えない「障害者」が分断され、
ますます生きづらくなっている現実がある。この国は、さほどヒューマンな国とは思えない。

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