190929 宣教要旨 イザヤ書35:3-6 マルコ福音書8:22-26 題「再生のわざ」宣教 金田恆孝
190929 聖霊降臨節第17主日礼拝 宣教題「再生のわざ」
イザヤ書35章3−6節
3 あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。
4 心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
5 その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。
6 その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。
マルコ福音書8章22−26節
そのうちに、彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。
イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。
すると彼は顔を上げて言った、「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。
それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。
そこでイエスは、「村にはいってはいけない」と言って、彼を家に帰された。
聖書から聴く 主題「再生のわざ」
マルコ福音書7章31節に耳と口、舌が不自由な人のハンディキャップが癒やされたという記事があります。その人を衆目から話し、イエスは指をその人の両耳に入れ、ご自身の唾でその舌を潤した、とあります。眼を患っている人の目にイエスが唾を塗るわざも、イエスご自身の身体とその人の身体とを重ねる、繋がるわざであり、預言者エリアが死にかけている子どもを癒やすときのわざと同じわざでしょう。
ほんの僅かな食べ物が飢え乾く数多の人々を癒やしてあまりあった事件が続いたのち、神の国の近づきとそれへの参与が求められているのに、それを悟りもしない、わかろうとしていない周囲の人々へのイエスの苛立ち、告発があったあと、目の不自由な人がイエスのもとに連れてこられた、という流れになっています。“ひとりの盲人を連れてきて”とは、連れてきた人々がいたわけです。
連れてきた人はイエスを攻撃する側の人で、イエスを試みたい、失敗を期待する動機だったのでしょうか。それともイエスの力を信じたいひとだったのでしょうか。あるいは盲人の身内か友人などで、有名なイエスに頼んで本人をなんとかしてほしいと願った人だったでしょうか。
行為の動機はいつも重層的ですが、攻撃する側でなければ、おそらく“奇跡”が起こるかどうか衆目の中で試し、イエスのカリスマ性、超越性を世に示し、メシア待望の熱気を奮い立たせ、イエスたちから離れかけている多くの群衆を再び引き戻したいという思いが、彼を連れてきた動機としてあったのではないかと思うのです。立ち会った人々が証言者となり、『イエスこそメシア!神の子!スーパースター!革命指導者!我らの王!』などの熱狂が湧き上がる期待があった、イエスを中心とするセクトを拡大したい思いはあったのでしょう。
その意図、動機を感じたからこそ、そのひとを衆目から離して、もっと言えば“隠れた場所で”そのひとと繋がり、ハンディキャップ、重荷を分かち合う「再生のわざ」が行われたと思うのです。
イエスは決して自分自身をトップとしたセクト、宗派、集団を作ろうとしたのではなく、イザヤのいう“しんがりに立たれる神”による神の国のわざが始まっていること、神の裁きと救い・再生の技が始まっていることを具体的に示しただけでした。
○先週の出来事(気になるニュース)
国連でなされたグレタ・トゥーンベリさんの、子どもの立場から世界の為政者たちに向けて行われた怒りのスピーチは衝撃だった。単に地球温暖化の問題に限らず、資源争奪、海外派兵、原子力兵器、核汚染、海洋汚染、難民を拡大させながら難民を締め出す国々などの為政者たちの姿を彼女は見据えている。
が、さっそく、リベラリストたち、左翼の人々の仕組んだヤラセだとか、冷水を浴びせようとする騒音も湧き上がった。しかし
自分の子どもから、或いは子どもたちから『こんな社会に誰がしたんですか!』の告発から逃れられるおとなたちはいない。