2020年1月12日 降誕節第3主日 レビ記2:13-14 民数記18:19 列王記下2:20 マルコ9:49-50 「火で塩づけされる」週報No.2641
2020/01/12 宣教要旨 レビ2:13-14 民数18:19 列王下2:20 マルコ9:49-50 週報No 2641 題「火で塩づけされる」宣教 金田恆孝
レビ記2章13-14節
13 あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。14 もしあなたが初穂の素祭を主にささげるならば、火で穂を焼いたもの、新穀の砕いたものを、あなたの初穂の素祭としてささげなければならない。
民数記18章19節
19 イスラエルの人々が、主にささげる聖なる供え物はみな、あなたとあなたのむすこ娘とに与えて、永久に受ける分とする。これは主の前にあって、あなたとあなたの子孫とに対し、永遠に変らぬ塩の契約である」。
列王記下2章20節
20 エリシャは言った、「新しい皿に塩を盛って、わたしに持ってきなさい」。彼らは持ってきた。
21 エリシャは水の源へ出て行って、塩をそこに投げ入れて言った、「主はこう仰せられる、『わたしはこの水を良い水にした。もはやここには死も流産も起らないであろう』」。
マルコによる福音書9章49-50節
9:49人はすべて火で塩づけられねばならない。
9:50塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。
聖書にこころを傾ける【神さまから火で塩づけされること】
人が生きるのは神から出ることば一つ一つによる、とイエスは言われる。神のことば、神との契約は「塩の契約」とも言われる。
塩水は地上の生命の始まり。塩は生ものの腐敗を防ぎ、保存用にも用いられる。日本でも古来より塩を神さまからのことば、しるしとして受け取り、汚濁を浄め、,水をきれいにし、身体の体液の流れを整える。弱った身体を回復させるためのリンゲル液にも5%の塩が入っている。
捧げ物を塩で清めるとともに、自分自身や身の回りを塩で浄める、という作法があったらしい。これも日本の文化と似ている。神さまから守られ生かされている自分を、自らも浄めるという感覚は共通しているのだろう。
イエスが、「人はすべて火で塩づけられねばならない」と言われるとき、人を生かす神の言葉を「火」と「塩」で言い表し、人の傲慢さを火で裁き、塩で味付けをし、人の心と体とを守り整えてくださる働きを表現していると思われる。
神との契約が「塩の契約」,「塩のことば」ならば、人と人とを繋ぐものも「塩」であれ、とイエスは言われていると思われる。それが「あなた方自身の内側に塩を持ち、互いに和らぐ」、つまり“塩の関係”を築きなさい、と表現される。そのためには、塩味のある塩を内側に持ちなさいと。
「火で塩の味を取り戻されなさい」とはイエスの絶妙な“譬え”、言い回しであろう。わたしの弱さ、愚かしさ、傲慢さを火で焼かれ、浄められ、塩の味・役割を取り戻すことがわたし自身の課題として示されている。
この人間社会の“強い力”、“多数の力”、“全体主義”、“国家”に守られようとする【傲慢さ】を、私たちの「内なる課題」としてどう向き合っていけばいいのか。
黙想とともに主イエスのことばを内側に響かせたい。
先週の気になる出来事、ニュース
相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で利用者ら45人を殺傷したとして、殺人罪などに問われた元同園職員の植松聖(さとし)被告(29)。入所者一人ひとりに「しゃべれるか?」と問い、「しゃべれないじゃん」と刺し続けていた様子。目の前の人間たちの要不要を一言で決定するという“神の座”にある恍惚感を抱いていたのだろう。そこに至る過程で、「自分は要る人間か、要らない人間か」の自問自答はあったはずである。彼がかつて働いていた場所は、「ウソっぽい(社会復帰?)きれい事で、役立たずを社会から隔離し、無理に生かしているだけ」という認識があったのだろう。そういう施設の在り方そのものも問題だが、そこにいる人々の、誰ひとりとして彼が心を通わせ合うことができなかったことが最大の不幸だったのだろう。