2020年1月19日 降誕節第4主日 詩編8:1-9 マタイ18:10-14 「多数決の罪」週報No.2642

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2020/01/19 宣教要旨 詩編8:1-9 マタイ18:10-14
題「多数決の罪」週報No.2642  宣教 金田恆孝

詩編第8
1 主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、
2 みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。
3 わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。
4 人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
5 ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、
6 これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。
7 すべての羊と牛、また野の獣、
8 空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。
9 主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。

マタイによる福音書18章10-14節
18:10あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。
18:11[人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。
18:12あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
18:13もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
18:14そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

宣教題「多数決の罪」
 現代社会、特に“先進諸国”は、神への「畏れ」と被造世界への「讃美」を失っていると思われる。
聖書は、神が造られた世界を讃美するのは乳飲み子の口だと言う。その乳飲み子、幼子のこころに最も大きな「ちから」の基を神は置くという。おとなの知性も合理性も知識も判断力も及ばない、無条件に神の愛、恵みを受け取る、神にひたすら生かされる小さな者。このこころが、人間同士の争いを押し鎮めるのだと聖書はいう。
 やはり立派なおとなとして社会から認められないとこの世は生きにくい社会なのだろうか。おとなでないと家族や身内を守れないのだろうか。が、そういった「大人」の成長、知性や合理性、多数決の論理がこの世の争いや憎しみを鎮めるのではないと詩編は語る(そのような幻想は捨てるべきだと)。 幼子に戻り、神の造られた世界と出会い、喜び、讃美し、大きな「ちから」を得るには「乳飲み子」のこころに戻って世界と向かい合うべきである。礼拝はこの「幼子」を取り戻す時間である。

 世のおとなたちは幼子に与えられている「知恵」や「ちから」を認めず、小さき者、少数者、ハンディのある者、弱い者(社会的弱者)のこころを尊ぶことをしない。おとなたちは世に与えられている富を「多数のおとなの意見」により“最大多数の最大幸福”の方便の元に、おとなの強者たちが「富」を奪い、分かち合っている。

イエスの「99匹の羊と一匹の羊」の譬えは、世の合理性、多数決の世界をひっくり返している。99匹の羊を守る合理性を正しいこころとはせず、最も弱い立場の者の側にこそ、世のしんがりにこそ、神はおられるという。

 誰ひとり、軽んじていい「いのち」はない。それを抽象的な倫理観、たてまえの「べき論」においやるのではなく、幼子の心を取り戻しながら、イエスのことばを実践していきたい。とりあえず役立たずの「ガキ」のままでいよう。

先週の出来事、ニュースなど
 25年前の「1.17」阪神淡路大震災の追悼行事が行われ、震災によって引き裂かれ、天に召されたあまたの魂たちへの祈りが続いた。いまも大切な死者たちとの対話でもある。一方で9年前の「2.11」東日本大震災の天災と人災はいまも続いている。原子力緊急事態宣言発令はいまだ「発令中」のままである。原子力政策の過ちを認め廃炉をめざすべきである。今も続いている苦しみや悲しみにこころを寄せ続けたい。

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