アベこべのきれいごと表現
2020年1月19日に発表された「大学入試センター試験」の国語問題。ちらちら眺めながら首をかしげた。マークシート向け「国語」問題なのだが、まず、「これ、国語の問題?」と思わされる。英語(resilience, vulnerability)の他に、カタカナ語(レジリエンス、サステナビリティ、ソーシャルワーク、クライエント、エンジニアリング、ミニマルなど)が並ぶ。英語、カタカナ語の解説のような第一問の問題。
「次の文章は、近年さまざまな分野で応用されるようになった“レジリエンス”という概念を紹介し、その現代的意義を論じたものである。これを読んで…」という設問。
出典は(河野哲也『境界の現象学』による)とある。引用元は社会福祉事業研究者で(レジリエンス)の提唱者と紹介されているマーク・W・フレイザーの著書。環境システムの専門家ウォーカー(誰だ?彼についての注・説明はない)の、レジリエンスについての比喩的説明(静かな船内と激しく揺れる船内におけるコップ一杯の水の運び方の違い)から始まる。
(エンジニアリングなど様々な分野に応用される重要な概念)としながらも、(ミニマルな福祉の基準として提案できる)とあり、焦点は“福祉”である。
概念と論理の誘導の方向と着地点は、“障害や病気などにより環境に適応できない人の適応能力を高め、そのために援助すること”にある。いわゆる身体的機能訓練やそれに類する適応訓練の概念として異論があるわけではない。が、もっともひっかかるのは、この著者が福祉の現場を知らないであろうことが伺え、更に、社会不適応の烙印を押される側からの視点がほとんど抜けていることである。どこかの国の首相演説のきれい事と構造がそっくりである。
聖書には、倒れている人への援助としてコップ一杯の水をもってかけつける譬えがある。この文では、(仕事として)コップ一杯の水の運び方から論が始まる。
きれいごとの第一弾。
人と社会の関係に於ける不適応な状況について、双方に柔軟性を求めている。環境の流動・変動を路面のでこぼこを吸収する車のサスペンションの如く変動吸収するサステナビリティ、柔軟性、バランスのとり方が大切だと、読者に再認識するよう期待している。
きれいごとの第二弾。
適当な失敗(トラブル、事故、病気、障害、欠損)は最初からレジリエンスの概念に包含、つまりはじめから予定されている、わかっている。すべてが健康な人や普通の人を前提としているわけではない云々。失敗(不適応・小さな火災)を予防したり排除したりすると生態系や社会の再構築、更新を妨げ、硬直化し、社会、環境の壊滅的な大火災(自滅)につながる。
きれいごとの第三弾。
環境に適応できない人の弱さ 、“脆弱性”vulnerabilityを、社会の側の内側に抱えていると、社会や組織の側の柔軟性を失っていることのセンサーととして利用できる。脆弱性への柔軟性を失っていることは、不慮の災害への適応を失っていることである。内側の、もっとも脆弱な人をセンサーの基準として用いることができる。
きれいごとの第四弾。
「人と社会環境相互作用への働きかけ」(相互性)を掲げながら、「 状況環境適応ではなく個人固有能力の促進を支援」するという。情況環境適応ではなく、といいながら、個人固有能力の促進はつまるところ、情況環境適応に向くしかないように誘導されている。
きれいごとの第五弾。
「福祉の目的 は、変化する社会への柔軟な適応力を高めることであり、その人のニーズを自身で充足する能動的な力を得ることである、という。 自律的な生活を送るための最低限の回復力を個人が目指す努力をしなければならない。」つまり、最後は、弱い人本人の努力次第、ということになる。
「自己のニーズを満たせない個人への援助、 ケアは物質的補充金銭的援助ではなく、生命の自発的、能動的、自律性が要求される。自分のニーズを満たせる力を獲得できるよう本人を支援するのがケアである。」つまり、最後は自己責任、ということになる。
“援助、 ケアは物質的補充金銭的援助ではなく”が、つまるところ、現状の福祉予算削減、ヘルパーや福祉現場の職員たちの過重労働、低賃金、収容者の管理強化、障害者年金や生活保護費の削減等などの現実から目をそらし、身体・精神障害者、「発達障害者」たち弱者へのボランティア精神? 愛?(無料)を推進させながら、福祉政策の矛盾、問題をきれいごとで隠していく働きとしてこの概念が利用されていることに心が痛む。
企業における「コンプライアンス」こそ重要、などのカタカナ文化の増大、無節操なアメリカンスタンダードの拡散などが現代の病理性の一端を示していると思われる。更に、これが共通一次試験の「国語」設問に用いられていること、また、過去問として利用されることが、心理誘導されやすい若者にどう影響を与えるかがかなり不安である。