2020年3月8日 受難節第2主日礼拝 創世記19:15-28 マタイ福音書11:20-24「町や国を叱るイエス」週報2649

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創世記19章15-28節
15 夜が明けて、み使たちはロトを促して言った。「立って、ここにいるあなたの妻とふたりの娘とを連れ出しなさい。そうしなければ、あなたもこの町の不義のために滅ぼされるでしょう」。16 彼はためらっていたが、主は彼にあわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた。17 彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。

23 ロトがゾアルに着いた時、日は地の上にのぼった。24 主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、25 これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。26 しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。

マタイによる福音書11章20-24節
11:20それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。11:21「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。11:22しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。11:23ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。11:24しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。

聖書に心を傾ける 【町や国を叱るイエス】

ソドム、ゴモラの町はパレスチナ、地中海沿岸にあって、交易によって貿易商人たちが栄えた町であり、あぶく銭に群がって酒場、遊興、公営賭博などの夜の世界が広がり、性奴隷が集められていた町だったようです。いつの時代でもそうですが、あぶく銭に人々が群がる場所では、人は強者と弱者、勝者と敗者、日の当たる場所と日陰の場所に分けられ、誰も助け合う人はいなくなった。この町が火山活動で滅ぼされ、ソドムとゴモラは、人間の傲慢による廃頽ゆえに神に滅ぼされる象徴として語られてきました。
 イエスがコラジン、ベトサイダ、カファルナウムの村や町を(そこに住む人々ではなく)激しく叱ります。ソドムやゴモラの方が罪が軽い!と。イエスのこの責める言葉の強さ、激しさにびっくりします。なにせ、カファルナウムやコラジン、ベトサイダは、イエスたちがもっとも長く宣教活動や癒やしのわざを行ったガリラヤ地方の村や町だったのですから。

 イエスたちの宣教や弱者を助ける活動により、多くの人々がイエスたちに従い、その活動を支持していたのは確かです。が、それは「町」として、「村」としての理解でも支持でもなく、個々人によるもの。むしろ、行政区としての町や村は、イエスたちを犯罪者扱いするユダヤ教指導者たちやヘロデ王たちに決して逆らうことはなく、むしろ町や村を守るためとしてイエスたちをあげつらう情報を提供するなどして、強い力に迎合していたと思われます。

 イエスたちの活動が、強者と弱者、清い人と穢れた人、神の民と地の民(アムハーレツ)などの、人間が作った「分断」を破壊するものであり、支配者たちからみれば、社会秩序を揺るがす悪行であったわけです。

 イエスのように、人と人とを分断する国家や町や村を激しく叱ってくれるキリスト者はいずこに。

先週の出来事・気になるニュースなど

 新型インフルエンザ騒動で、休校、イベント中止など、病者隔離、分断政策の方向に舵を切っているように見える。しかも国を挙げてオリンピックはどうしても実施したいらしい。まずは治療施設の確保、建設。医療体制の拡充こそが第1のはず。人を分断させてはならない。

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