2020年4月19日 復活節 第二主日礼拝 イザヤ書35章 マルコ福音書16章「再生のビジョン」宣教 金田恆孝

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イザヤ書35章
1 荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
2 さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
3 あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。
4 心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
5 その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。
6 その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。
7 焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる。

マルコ福音書1617-18
16:17 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、
16:18 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
16:19 主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。
16:20 弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕

   宣教題【神による再生のビジョン

「信じる者には次のようなしるしが伴う。」という。しかし「しるしはヨナのしるし以外は与えられない」のだから、大魚に飲み込まれる、抗うことができない運命、百鬼・悪霊に飲み込まれるという「しるし」。蔓延するコロナウィルス災禍の中で、再生のビジョンを描きたい。

「毒蛇すら素手で掴む。毒を飲んでも害されない。」
マルコ福音書が告げる神の国への道は、悪霊と看做されるさそりやジャッカル、毒と共存する道だと思われる。善悪の二元論に立ち、悪を自分の住んでいるところから排除する道ではなかった。イエスたちの働きは、悪霊たちの本質・正体を見抜き、手なづけ、豚などの乗り移る対象、居場所を定めて命令することでもあった。それは外側から見れば“悪霊の頭”のわざと言われた。

 明治以降の西洋医療は、雑菌であれウィルスであれ、それらを「敵」とし、抗生物質などで体内から排除し、内側からの免疫力や、内側から発生する「抗体」を支えるものではなかった。現代都市における生活は「汚れ」を穢れ扱いし、清潔さで武装し、悪霊たちを敵として排除し、外に追い出す=外在化させてしまう。
人間は本来清濁併せ持つ存在であり、内側に「悪」も存在する。

 「荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、2 さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。」

 イザヤが示した神の国への道は、サソリやジャッカルが共生する砂漠の再生である。毒や雑菌を排除した「無菌室」「クリーンルーム」ではない。

 世界各地で猛威を振るうコロナ(王冠)ウィルス。ウィルスの王冠マークが、王「リーダー」を筆頭とする諸国家を象徴しているように感じてしまう。国家の庇護のもとで現代人間たちの過ごす文明生活のステージは、洗剤や薬物や抗生物質などで洗い清められ、性善説に立ち、内なる悪を認めず、外の何かに転嫁させ、悪を排除し続けてきた。
 内なる悪、内なる悪霊を認めようとせず外在化、転嫁し続けてきた矛盾が極限状態にまで来てしまったことの帰結が今という時代なのではないか。そこに現れる「しるし」はヨナのしるし。
 すでに人々は大魚の腹の中。突然変異を続けるウィルスは、早急なワクチン作りを妨げる。
 ヨナの祈りのごとく、神を我がいのちの主と告白し、すべてを主に委ねる(Let it be)ことこそ、今現在の告白ではないか。

先週の出来事
非常事態宣言なるものの対象が、主要都市から全国に広がった。国民ひとりにつき、徴税したお金の中から10万円を戻すそうな。このまま収束に二年以上が必要だった場合、国家体制はどうなるのか。王たちは逃げ出すのだろうか。(ヨハネ福音書12章31 今こそこの世が裁かれるとき。今、この世の支配者たちが追放される。逃げ出す。)

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