2020年7月12日 東淀川教会礼拝 申命記19:15−20 マタイ福音書5章・18章 宣教「支配者に裁判を委ねず」
申命記19章15-20
15 どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。
16 もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、
17 その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。
18 その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そしてその証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、
19 あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。
20 そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。
マタイ5章23−26節
5:23だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、
5:24その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
5:25あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。
5:26よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。
マタイ18章15-18節
18:15もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。
18:16もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。
18:17もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。
18:18よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。
「支配者に裁判を委ねず」
古代ユダヤでは“全員一致の判決は無効”の習わしがあったと学んだことがあった。事実は経済的民事的なトラブルには適用されず、“石打の刑”のような、死ぬこともあるような個人の人権が奪われる重大な決定をする場合、本人を弁護する人が必ずいなければならないという主旨だったらしい。
申命記19章の主旨は、一方的な訴えで被害者と加害者を判断してはならず、立場の違う者も含む複数の証人を呼んで事実を吟味しなければならない、というもの。「裁判人」とは職業的な裁判官ではなく、民間から裁判員として判断を委託された者、と意味。祭司が取り次ぐ神の前で、いろいろな立場から、被害と加害、善悪、償いなどが、どこまでも「民間」で、民事的解決しなさい、自分たちの中から悪を取り除きなさい、というものである。
小学生だった頃、嫌だと思ったことを何でも先生に言いつけて「先生が○○って言ってた」と、勝ち誇ったように言い、自分の気持ちを正当化する人たちがいた。「先生」の権威を使った方が、話し合いで解決を図るより早くて簡単なんだろうけど。
「あなたを訴える者と一緒に道を行く時には」とは、相手が民間での解決を探ろうとせず、支配者とか国家、民間に君臨する「ちから」に利害の解決を求めようとしているのであり、民間の“私たちの中から罪を取り除く”ことにはならない。ここでいう「裁判官」は、民間に対する支配者側の裁判システムであり、人々を罪に定めて秩序を守ろうとするのが目的であり、他の人や、自分たちを悪から救うことは念頭にはないことが多い。
法律や、裁判所や王様、支配者、社会システムの介入を避けて、感情的には嫌な人ともしっかり向かい合い、民間の関係の中でより良い、問題の「おたがいさま」の解決方法を編み出し、生み出していくこと、それが主イエスのメッセージだと思われます。
先週の出来事 「コロナウィルスからのメッセージ」
東京都からコロナウイルスの第二波が始まっているのでしょうか。死者は増えていないようですが。親密な隣人との止めて距離をとること、密集・密閉を避けることがウィルス感染を防ぐことらしい。ならば、ウィルスからのメッセージとは、21世紀、この国の総人口も減り続け、地方の過疎化は進んでいるというのに「そもそも都市への人口集中、経済集中、過密そのものがもう限界になっていますよ」という「声」なのではあるまいか。