2020年9月20日 東淀川教会礼拝

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イザヤ書43章1節
43:1イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。

マタイ福音書18章12-14節
18:12あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
18:13もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。18:14そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

ルカ福音書15章4-10節
15:4「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
15:5そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
15:6家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
15:7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
15:8[また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。
15:9そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。
15:10よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。

東淀川教会礼拝 イザヤ書43章1節 マタイ福音書18章12-14節 ルカ福音書15章4-10節 
宣教題 
「たったひとりと対話する神」宣教 金田恆孝

 アブラハムの一族は移動の民、遊牧民であり、本来は国を持たずに移動する人々だった。イエスの時代も巨大な国はあり、それとどう付き合うか、関わるかは大きなテーマだった。
 イスラエルを「神が支配する国」と読むのは本来ではない。国は人間が作り出したものである。神と挌闘したヤコブに与えられた名の意味は「命がけの挌闘=必至の対話=神と対話しつつ歩む生き方」が本来の意味に最も近いと思われる。

 99匹と一匹の羊の話はマタイ福音書とルカ福音書に現れる。両福音書が参考にした「イエス語録・Q資料」からの引用と思われる。全体あっての個、全体主義的視点から見れば100分の一だが、唯一の個あっての全体、個を欠かして全体在らず、という個人主義をイエスが対比的に語っていたのでしょうか。そうではないでしょう。百匹の羊はかけがえのない家族、仲間を表し、百匹の羊の一匹が行方不明になったことの「困った度」は「わたしたち」全体の困りごと、たから見つかれば全体で喜び祝うことになる。人と人との関係を前提とするのが「人間」、個人のpersonを越えた言葉。そこには「神が与えた人で、不要な、邪魔な人はいない」という人間観を指し示している。

 ルカ福音書では、悔い改めに主眼が置かれ、見失われた一匹の羊の話は「信仰のない者=一人の罪人が悔い改めるなら」=イエスを自分の救い主として委ね、救われなさい、という方向にリードしている。

ルカ福音書では更に、「失われた銀貨」の話をつなげ、貨幣(国が発行する交換価値の象徴)をかけがえのない大切なものとして語り、国家を前提とした経済生活を大前提にしている。

 パウロになると「一人ひとりは教会という全体の身体の一部分であり、かけがえのない存在である」という教会論になります。{コリントの信徒への手紙一12章)

 イエスが子どもや大人たちに語っていた「1匹と99匹の羊」はどんなんだったでしょう。おそらく100人が、子どもにも顔と名前を覚えられる、ひとつの群れ、いとつの村としてイメージしやすい単位だったと思います。

一匹の羊と99匹の羊、羊飼いの話は、羊=信者、羊飼いは牧師(教会)、などという、パッチワークのような解釈にくれぐれも心理誘導されませぬように。羊飼いは「神」であり、羊は「人間」です。何人周囲にいようと、100人いようと、70億人いようと、神はたったひとりを探し、たった一人と向かい合い、呼んでくださる、応答してくださる神なんだ、というのが大前提です。

「世界がもし100人の村だったら」2001年池田香代子著は、米国イリノイ州のドネラ・メドウス教授がネットで流した「世界がもし1000人の村だったら」が100人に縮小された本。“世界63億人がもし100人に縮めると、52人が女性で48人が男性、30人が子どもで70人が大人で7人がお年寄りで、90人が異性愛者で10人が両性愛者で、70人が有色人種で30人が白人、…17人が中国語、9人が英語、8人がヒンディー語とウルドゥー語、6人がスペイン語、6人がロシア語、4人がアラビア語を話し、… 75人は食べ物の蓄えがあり、25人は不十分で、17人はきれいな水が飲めません、1人が大学教育を受け、2人がコンピュータを持っています、14人は文字が読めません、米国の6人がすべての富の60%を持っていて、74人が38%を持ち、20人が残りの2%を分け合っています。この村を救うにはこの本を読んでいるあなたです”という内容の本。この本の更に元になっているのが、国連の仕事をしていたキリスト者、犬飼道子氏の“世界の食料、エネルギーなどの資源や富の四分の三は世界の先進国四分の一の人々が握っている、という、地球の南北問題を扱った「人間の大地」1983年出版 という本でした。これらの本の一番始め、ルーツはイエスのお話だったんじゃないか、って思っています。でも現代のグローバリズムはこういう世界理解を無意味にしていくのでしょうか。

先週の出来事
大坂なおみテニス選手による黒人差別へのマスクを使った抗議行動に思わず拍手。Black Lives Matter(BLM)運動。黒人差別が原因で犠牲となった7人の名前を刻んだ7枚のマスクを用意し、勝ち上がるたびにマスクと共に黒人差別に対する抗議メッセージを発信。スポーツに政治を持ち込んだ、などの彼女への批判に対し、逆に「勝つための刺激になった」と決して負けないツイート。すごい!

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