20201011 東淀川教会礼拝 宣教要旨 つまずかせるもの マルコ9:41-42
箴言記29章25節
人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。
マルコ福音書9章41~42節
だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。
マタイ福音書18章6~7節
しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。
この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。
宣教題「つまずかせるものは何か」
マルコ福音書では、渇いている人に水一杯を持って駆け寄る心が祝福され、逆に、小さい、幼い心を躓かせる、罠にはめる心を厳しく断罪している。神に生かされていることを無心に喜び、出会った人々を愛そうとする、渇いている人の元に一杯の水を差し出す幼子の心に人々を注目させ、この幼子の心に不条理を強い、躓かせるものは何かを人々に厳しく問いかけている。
同じ記事がマタイ福音書になると「世は人を躓かせるから不幸だ」となる。“自分たちは悪くはないが、世の中が悪い”となる。長いものには巻かれるしか仕方ないという方便が成り立つ。
ルカ福音書になると「つまずきは避けられない、だが、それをもたらす者は不幸だ」の記事に変わる。“みんなつまずいておとなになるんだよ” “ひとをつまずかせる者は神が罰せられるから不幸になるんだよ”という因果論で問い続けることを諦めさせてしまう。キリスト教が古代ローマ帝国や周辺諸国に浸透していく中で教団(セクト)を守りながら教えを広めていくために取り込んでいったダブルスタンダード(建て前と本音の二重性)、トリプルスタンダード(異なる教えとの妥協)「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、私自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました」。(第一コリント9章20節)
日本学術会議に任命されなかった6名の学者は安保法制に反対する人、立憲デモクラシーの会、沖縄米軍基地に反対する人、治安維持のための共謀罪に反対する人など。
政府にとっての“つまずきの石”はあらかじめ取り除きたいという意図が見え見え。科学者たちはかつて軍事・戦争に協力してきた反省から、国家の過ちを監視する「知」の立場を守ろうとしてきた。が監視の勢力がますます小さくさせられようとしている。
「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」箴言記29章25節
「あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足をつまずきから助け出されました。」詩篇116編8節
幼き心、ちいさくされている者の心を守るため、つまずかせるものに対して人々が集まり、わいわいがやがやと話し合う。教会がそんな「わいわいがやがや」の場になったらと願う。
先週の出来事
ロシアやスペインでコロナ感染が広がり、スペインでは非常事態宣言。ワクチンも効かない? 不安を「夢」で払い落とそうと目論み「世論操作」する勢力はあるけれど、来年のオリンピックも絶望的ではないのかと感じてしまう。