20201108 礼拝宣教要旨「お金と金融業」

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20201108 降誕前第七主日礼拝 讃美歌10「我が魂讃えよ」46「山の端に」56「七日の旅路」 
ルカ福音書19章11-28節

             共同の祈り(応唱)
時の始まりであり 終わりであり 永遠なる神さま  万物といのちの造り主 唯一であり全てである神さま すべてのいのちを導く神さま 小さき者の祈りに応える神さま   
                      『聖なる 聖なる 聖なる主よ』✕3回 (Holy) 
 聖母マリアを通し我らに与えられた とりなしの主キリスト・イエス その十字架のもとに集う
ことができたこと 感謝いたします                       
                    『主の恩寵(おんちょう)に感謝』 ✕3回 (Grace) 
 主の声を聴こうとせず  自然や万物の所有者の如くふるまい  自分や同胞の安全と利益のみを計る傲慢な人間のひとりであること 我々を愛する如く我々以外の人を愛せなかったことを告白します               
                    『我が罪を許し給え』 ✕3回 (Forgive My sins)
 主の求める生贄は過ちと罪を認め悔い改め 過ちを防ごうとする心  主は帰ってきた放蕩息子を受け入れ  神の御国を思い出した盗賊を捨てられず 悔い改める者を友とし  汚れ疲れた心を洗い 新しい霊を注いでくださいます     主の許しと憐れみ無しに 我が道はありません                     『主よ憐れみ給え キリストよ憐れみ給え』✕3回 (Mercy)
 いと高きところに栄光神にあれ 地にある神の民に平和あれ  我らの主  天にいます主 全知全能の神よ 神のひとり子 キリスト・イエスよ 神のみちからであり神の息である聖霊よ 主に感謝し 主を讃え 主のすべてを賛美いたします       
             『グローリア、グローリア、グローリア』✕3回 (Gloria) Amen 

ルカ福音書19章
11 人々がこれらのことに聞き入っていると、イエスは続けて一つのたとえを話された。ご自身がエルサレムに近づいて来られたのに、人々は神の国がすぐにも現れるものと思っていたからである。
12 それで、イエスは言われた。「ある身分の高い人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へと旅立つことになった。13 そこで、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
14 しかし、その国の市民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王に戴きたくない』と言わせた。
15 さて、彼が王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。
16 最初の者が進み出て、『ご主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。
17 主人は言った。『よくやった。良い僕だ。お前はごく小さなことに忠実だったから、十の町を支配させよう。』
18 二番目の者が来て、『ご主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。
19 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
20 また、ほかの者が来て言った。『ご主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。
21 あなたは預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』
22 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。
23 ではなぜ、私の金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
24 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』
25 僕たちが、『ご主人様、あの人はすでに十ムナ持っています』と言うと、
26 主人は言った。『言っておくが、誰でも持っている人は、さらに与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。
27 ところで、私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ。』」
28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。

 宣教題「お金と金融業」
 外国人には利息を取って貸してよいが、同胞からは利息を取ってはならない。あなたが入って所有する地で、あなたの神、主が、あなたのすべての手の業を祝福されるためである。申命記23:21

 古代ユダヤ教では同胞から利子を取ることは禁止されていたが、金融業はむしろ奨励されていた。古代ローマからのキリスト教では法王が金貸業を禁止しており、ルネッサンス、宗教改革により法が国王、国に移るまではユダヤ人は離散状態の中で貿易決済業に携わり、為替技術を確立し、保険、株式、債券、銀行業に携わっていた。産業革命の波に乗って資本主義を世界に広めることとなった。今日の最大の勢力がユダヤ系ロスチャイルド家の人々といわれています。(かつて芝居で演じた「ベニスの商人」のシャイロックを思い出します…)
 マタイ福音書25章では、天の国の譬えとして、良い主人が3人の僕に各々5タラントン2タラントン1タラントンを運用を任せた。時がたち、5タラントン2タラントン預かった僕は各々2倍儲けたが、1タラントの僕は主人が悪い人だと思い運用せずそのまま返した。儲けた二人は褒められたが運用しなかった僕は役立たずと叱られ1タラントンは取り上げられ外に放り出される羽目になる。
 この箇所は多くの場合、神から与えられた富も才能も活かして人に仕えなさい、みたいな説教になることが多い。ルカ福音書では王になろうとしている悪い主人が10人の僕に各1ムナの運用を任せた。王になって帰ってきたときそれを10倍にした僕と5倍にした僕は各々褒められたが、主人を悪い人だと思い運用せずそのまま返した僕は叱られ、1ムナも取り上げられ、主人が王になることに反対していた人々と一緒に撃ち殺される。
 “ローマへの税金について問われたとき「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」”(マルコ福音書12章17節)と語ったイエスはいったいどんな話をしたのでしょうか。本来は「貨幣(ぜに)がなくても銭に縛られず、誰もが生きられる世界」が理想なのは当然です。聖なる神によってのみ生かされる「信仰」にとって、貨幣、しかも皇帝の名が刻まれた銭は“汚れたもの”というイメージは拭い去りがたくあった(特に貧しい者にとっては)。
 が、すでに神からの恵みと物々交換や等価交換だけでは生きられないし貨幣経済から自由に生きられない現実だったわけです。
 運用しなかった者、隠しておいた者とは、貨幣経済への参加や権力者に対する納税義務などを拒否する者を示しており、とんでもない奴であり、ひどい目に遭うわけです。共観福音書の中で際立って目の中に飛び込んでくる「銀行」という言葉。日本で言えば両替屋、質屋、古物商、現代の信託銀行なども頭に浮かびます。
 どちらの記事にも共通するのは、お金の運用に反対なら銀行に預けるべきだ、との主人の言葉。お金の運用に長けた者なら運用すればいいが、そうでない者は信頼できる、運用に長けた者に任せなさい、とは、“右の頬を叩かれたら左の頬を差し出しなさい”とのことばと同じで強者の行いを悪として否定してもひどい目にあうのなら、貨幣の扱い、運用に長けた仲間、信頼できる人に任せたらどうかな、というような意味だったのではないかと思うのです。

先週の出来事
米国の大統領選挙は投票が既に終わっているのに、結果の開票と発表が遅れて混乱が長引いている。各州の投票結果で選挙人の総取り、各州の旗色決定となるシステムは私たちには理解しにくい。もしも州単位ではなく、州を超えた各個人の投票結果となれば民主党が必ず勝つだろうと言われている。現代米国のルーツは船で渡ってきた難民たち。米国が世界の警察官、軍事介入を止め(米日安保条約も)、銃社会を止め、多様な民族による民主主義を育む国であれと願う。

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