20201129 東淀川教会礼拝宣教要旨 「醒めていなさい」
詩篇1篇1-6節
1節 幸いな者/悪しき者の謀に歩まず/罪人の道に立たず/嘲る者の座に着かない人。
2節 主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人。
3節 その人は流れのほとりに植えられた木のよう。/時に適って実を結び、葉も枯れることがない。/その行いはすべて栄える。
4節 悪しき者は違う。/風が吹き払うもみ殻のよう。
5節 悪しき者は裁きに/罪人は正しき者の集いに耐えられない。
6節 主は正しき者の道を知っておられる。/悪しき者の道は滅びる。
マルコ福音書14章
34節 少し先に進んで地にひれ伏し、できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り、
35節 少し先に進んで地にひれ伏し、できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り、
36節 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」
37節それから、戻って御覧になると、弟子たちが眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。一時も目を覚ましていられなかったのか。
38節 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」
宣教題「醒めていなさい」
私たちの「脳」は、かなり、めちゃくちゃ、“テレビ脳”になっているように感じます。
人は自分の置かれている状況(情況)を抜きにして、唯我独尊のごとき孤立した姿勢で生きることはほぼ不可能である。情況判断も、何をどう決断し、どう行動するかも周囲の人々に同調することがまず基本となる。例えば戦時下において。例えば危機的状況と思われる(思わされる)情況において。後になって振り返れば、あのとき、なぜ自分がみんなと一緒に集団で狂気の中を怒濤の如く突っ走ったかは把握しきれない。
いつ如何なる時も祈りや神との対話に戻り、そこから自分だけの答えを導き出せる人は殆どいない。
かつての父母と同じで、NHK連続テレビドラマを見るようになっています。エール。人を応援する、チームを応援する、国家を応援する… 応援することで、恋愛心理と同じく、互いの繋がりを喜び、一体化したい願望があり、生きる苦しさも喜びも共有し合っているような生きがいにもなります。ドラマでは古関裕而が戦争協力したことを激しく悔いる場面がありますが、史実とは異なるとも。“戦争だから仕方なかった”以上の、自らの責任を問う感覚は、大陸の孤島、内弁慶な日本民族からは基本的に出てこないと思うのです。
Covid-10 コロナウィルス騒動はinfodemicと発信している人々がいる。「information+pandemic ウェブ(とりわけソーシャルメディア)上で真偽不明の情報や虚偽の情報(フェイクニュース)が流布し、これを多くの人が真に受けてパニック状態となり、社会の動揺が引き起こされること」らしい。
①このウィルスは感染した人がバタバタ死んでいくような殺人ウィルスではない。
②日本の年間の死亡者数130万人、一ヶ月の死者数11〜13万人(冬が多い)、1日4千人の死者数はほぼ変わらず。
③コロナで2000名の死者との報道。65歳以上は日本で3500万人。もしも2千名がまるまる65歳以上のコロナ関連死としても高齢者の死亡率としては低い。老人が流行感冒から肺炎となり死亡しやすいありふれた現象と言える。世界のコロナ関連死者数144万人という数字も、毎年の世界の死者数との比較、分析がなされれば、さほど死者数に特別な変異がないのでは、との意見もある。このウィルスが五大大陸をまたいで感染し高齢者が多く死んだことについて、医学技術によってむりやり延命させてきた命が自然の死に近づいただけ、という意見には妙に説得力がある。
医学は死にかけている人を死なさない、延命を図るのが目的。自発呼吸ができなくとも食べ物を飲み込めなくても心臓が弱っても医療器具で延命させることができる。covid-19を一般のインフルエンザと同様に扱い、マスクの強制も移動制限もしなかったスウェーデン方式の評価は2年ほどかかるとも言われている。風邪、インフルエンザで熱を出し抗体が形成され、ウィルスによって遺伝子情報や免疫情報が再構成されるべき若者が、風邪もひけない状況にあることに危惧を抱く医師もいる。死ぬべき時に死ねないのは恩赦なき無期懲役である、との声もある。なによりも、神さまに招かれているのに、或いは本来の肉体が滅んでいるのに医療技術や周囲の思惑が肉体を無理矢理引き留め、魂が神さまのもとに帰れないのは残酷物語でもある。
世界的なコロナ禍騒動で死の恐怖が煽り立てられ、ワクチンができるまで頑張ろう、とのかけ声もある。がこのコロナウィルスは発生からすでに一万種以上変異しているとのこと。開発されるワクチンが多様に変化しているウィルスに有効であり、弊害・リスクも少ないなんてあり得ない、との医学界からの指摘も多い。何よりも、ウィルス検査を受けるかどうかも、検査結果で陽性とされたときに入院するかしないかも、治療内容の選択も個人の意思とは関係なくなる方向に事態は流れていることが恐ろしい。薬品メーカーが潤沢に潤っても経済システムそのものが潤うわけではない。
イエスがご自身の捕縛、その向こうにある確実な処刑死を見据え、神との激しい対話・祈りをしているときに周囲の仲間たちは眠ってしまった、とあります。いまの私たちも眠っているんだと思います。頭での理解を超えた恐怖や極度の緊張の中で、意識が乖離してしまう(ぶっ飛んでしまう)のはなんとなく理解できます。そんな仲間たちに「醒めていなさい(自分を見失ってはならない)」とのイエスの言葉は、仲間たちにとって、そしてイエスの声を聞く私たちにとって、「私」と神との真剣な祈り、対話に引き戻してくださる、大切な、聞き逃してはならない「ことば」だと感じるのです。
先週の出来事
コロナウィルスワクチンがまもなく供給される、みたいなテレビメッセージが流れています。ワクチンの、従来の承認手続きをぶっとばしてにわかワクチンが年明けにも入ってきそうな雰囲気が醸し出されています。もしも、コロナウィルスのワクチンがアベノマスクのように政府から配布されたとしても、けっして簡単に飛びつかないように呼びかけ合いたいと願います。先ず責任ある政治家の方々、行政の方々、公務員の方々、医療関係者の方々などがワクチン接種を受け、1−2ヶ月たってその有効性が確認され、弊害がみとめられないことを確認してから、65歳以上の高齢者でワクチンを試したい人だけが自己責任で受けるのが良いと思われます。水銀やアルミニウムや抗生物質による脳や臓器に対する弊害の恐れがあるとも指摘されています。儲けではなく、人類を救うためという大義で承認手続きが簡略化されるなら、ワクチン製造の材料、製造工程も微細に明らかにされるべきです。わたしたち、ジジババはたいがいの毒を食べて脳にもストックして痴れて呆けていますからいいのですが、子どもたちや若者にはけっしてお薦めするべきではないと思います。