20210321 東著渡川教会宣教「なんもかも捨てて逃げましょう」
受難節 第五主日礼拝 週報No 2703
創世記19章 17節
彼らを外に連れ出したとき、主は言われた。「生き延びるた
宣教主題「なんもかも捨てて逃げましょう」
イエスが逮捕され 身近だった仲間たちが逃げ去ったとき「ひとりの若者が 素肌に亜麻布をまとってイエスについてきていたが 人々が捉えようとすると 亜麻布を脱ぎ捨てて裸で逃げてしまった」とのマルコ福音書だけの記事。
薄い亜麻布(リネン)の肌着一枚だっただろう。イエスについてきていた若者が、イエスの仲間と見做され 逮捕されそうになったらそれを脱ぎ捨ててすっぽんぽんで逃げ出した…と。まるで甲羅を脱ぎ捨てて逃げる亀みたいな滑稽さを感じます。
周囲はあっけにとられて 大笑いし、嘲りながら、追いかけることも、逮捕しようともしなかったのでしょう。唐突に現れ 素っ裸で走り去ったこの「若者」について、著者マルコ自身とか諸説はありますが、これは著者マルコが描いた「イエスとともに行動し 逮捕され処刑されることすら覚悟していた “数多の人々”を象徴的に代表させた登場人物」だと思うのです。
暴動にもならず イエス以外誰ひとりとして暗殺・逮捕・処刑などされなかったこと自体がミステリーです。イエスを慕って集まってくる熱心な人々に対しても、身近な仲間(弟子?)たちに対しても、その都度語っていたと思うのです。“わたしをメシア、教祖・運動のリーダーとして祭り上げ、徒党を組み、私たちを攻撃してくる勢力と 命がけで戦おうなどと決して思わないこと ヤバいと思ったら 何もかも捨てて 恥も外聞も捨てて できれば笑いを残して、ともかくスタコラサッサと逃げることに全力を尽くすべき。私たちを攻撃してくる彼らを裁くのは神に委ねるべき。私たちのルーツは遊牧民・地上を放浪してきた民・デラシネなんやから”と。イエス自身は十字架上で最後に「神に見捨てられた!」と大声で泣き叫ぶことにより失笑嘲笑を受け、暴動にもならず、その後の、復讐に立ち上がるかもしれない反乱グループに対する「残党狩り」が続くこともなかった。ユダもイエスが “身近な仲間にすら銭で売られた愚か者”として嘲笑を受け続けるための役割を果たした。
「マタイ福音書27章 有罪判決を後悔し銀貨30枚を神殿に投げ込んで首をくって死んだ」なんて、あまりに嘘くさい創作だろう。
1970年に加川良が歌った「教訓」を懐かしく思いだした。
“♭命はひとつ 人生は1回 だから 命をすてないようにネ
あわてるとつい フラフラと 御国のためなのと言われるとネ
命をすてて男になれと 言われた時には ふるえましょうヨネ
そうよ私しゃ 女で結構 女のくさったので かまいませんよ
青くなって しりごみなさい にげなさい かくれなさい♭”
(現代なら表現者に石が飛んできそうな箇所もあるが)
日本国憲法には国籍離脱の自由がある(憲法第22条)。あまり知られていないが、企業がどんどん海外に拠点を移しているグローバル化の時代。海外に活動や居場所を求めて流れ出していく若者が増えていくかもと夢想する。ただし鎖国時代が長かったこの国の民はグローバル化しにくいかもしれない。
先週の出来事
茨城県東海第2原発について水戸地裁は運転差し止め判決。愛媛県の伊方原発は差し止め取り消し。司法というよりも原発行政そのものがただいま「責任」から遁走中…なのだろう。
めに逃げなさい。振り返ってはならない。低地のどこにも立ち止まってはならない。山へ逃げなさい。滅ぼされないためです。」
マルコによる福音書 13章 14節
「荒廃をもたらす憎むべきものが、立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
マルコによる福音書14章 50〜52節
弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスに付いて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。