20210704 東淀川教会礼拝宣教要旨「悲しみ、怖がらなくていい」宣教 金田恆孝
聖書箇所(聖書協会共同訳)
列王記上17章 20-22節
そして主に叫んだ。「わが神、主よ、私が身を寄せているこのやもめにまで災いをもたらし、その子を死なせるおつもりですか。」彼は子どもの上に三度身を重ね、主に叫んだ。「わが神、主よ、どうかこの子の命を元に戻してください。」主はエリヤの願いを聞き入れ、その子の命を元に戻されたので、その子は生き返った。
列王記下4章 32-35節
エリシャが家に着いてみると、子どもは死んで、寝台の上に横たわっていた。彼は中に入って戸を閉め、二人だけになって主に祈った。そして寝台に上がって子どもの上に身を伏せ、自分の口をその口に、目をその目に、手をその手に重ねてかがみ込むと、子どもの体は暖かくなった。それから彼はまた起き上がって、家の中をあちこち歩き回り、再び寝台に上ってかがみ込んだ。すると、子どもは七回くしゃみをして、目を開いた。
ヨハネによる福音書11章 32-44節
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足元にひれ伏して、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、憤りを覚え、心を騒がせて、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。イエスは、再び憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石で塞がれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、もう臭います。四日もたっていますから」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは目を上げて言われた。「父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します。私の願いをいつも聞いてくださることを、私は知っています。しかし、私がこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らが信じるようになるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
宣教テーマ「悲しみ、怖がらなくていい」宣教担当 金田恆孝
世のどん底で、理不尽な子の死の悲しみに耐えられない寡婦の子をエリヤ、エリシャは自身の命体とを重ねて一体となり、神に委ね、“この子の命を天に引き上げるのなら私の命をも引き上げてほしい”と祈り、子の命は蘇った。ヨナの場合は、“私の命と引き換えにこの船の人々の命を救ってください”の祈りだった。預言者たちのわざは、存在の可否を神に預けていつも命懸けだったと思われる。
「ベタニア」死海の北側地域(悩む者の家)の意味。 神殿のある中心都市エルサレムでの激しい活動から離れて休み憩う場所だったか。
「ラザロ」とは友人マルタ、マリアの弟で (神が助ける者)の意味。
イエスが語った「いのち」とは、神から世に来たりて神の栄光を示すもの。肉体から離れることは、神の栄光のもとに帰るもの。自然死・病死などは神に委ねる他ないという認識だったと思われる。
命が世に現れるのも、神のもとに引き上げられるのも、神の光の中にある出来事。「昼のうちを歩めば」とは、神の光の中にいれば、怖がったり恐れたり躓いたりすることはない、という比喩的な表現だったと思われる。すぐにベタニアへ駆けつけなかったのもそういうことだったろう。が、マルタやマリヤは、死は闇であり、終わりであり、全てなくなってしまうという死への恐怖とともに、イエスが駆けつけ治療をしてくれたらラザロは死なずに延命する、という願望があった。一緒にいることが多かった友人ですら、死への恐怖は容易に乗り越えられるものではなかった。喪失の悲しみと失望(すでに匂う=死臭があるはず)に暮れるマルタやマリアたちにイエスの悲しみが昂り、先人の預言者たちのごとくラザロとイエス自身を重ねて神に祈るわざが行われた。大声で目覚めさせ、外に出てくるよう命じた、とあります。その結果、ラザロは動き出し、マルタやマリアの、イエスへの失望や死への恐怖が拭い去られた、という物語的な描写となったのでしょう。
どれほど聖書を学んでもイエスの話を近くで聞いていたとしても、マルタやマリアのように、やはり死は恐怖であり、絶望と感じてしまう。そんな時、十字架のイエスに頼れば、闇は消えて、イエスが主の栄光(パラダイス)に同行してくださる、『わたしはあなた方とともにいる』ということなのでしょう。
有名な放蕩息子の例え話があります。(ルカ福音書15:11 – 32)これも神への離反と回帰を表す物語としてだけではなく、世に送られた命が、命や体を自分のものとして自由に振る舞い、傲慢となり、死を、自分の命が奪われることとして恐れ続ける人間の煩悩・業(ごう)を現わし、やがて神のもとに帰ることができる宿命・運命を受け入れることができるようになることの物語的表現として理解することができると思います。
先週の出来事
中国共産党100周年習近平主席演説で台湾香港の一元化支配、侵略宣言とも取れる演説。「軍事政権」と表現したら法時措置を取ると声明を出したミャンマー“軍事政権”。現代文明は軍事独裁で終焉に向かうのでしょうか?