20210829 Sunday Service Linggo ng serbisyo 宣教題「ファリサイ派の正義」担当 金田恆孝

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詩編119篇18−20節
私の目を開いてください あなたの律法による奇しき業に 目を留めることができるように。
私はこの地では寄留者です。あなたの戒めを私に隠さないでください。
私の魂は、やつれ果てるほどに いつもあなたの裁きを待ち焦がれています。

イザヤ書64章4−5節 
あなたは迎えてくださいます 喜んで正義を行う者を あなたの道を進みながら あなたを思い起こす人々を。しかし、あなたは怒られました。私たちは罪を犯し、久しくその罪の中にいます。私たちは救われるのでしょうか。
私たちは皆、汚れた者のようになり 私たちの正義もすべて 汚れた衣のようになりました。私たちは皆、木の葉のように枯れ 私たちの過ちが風のように 私たちを運び去りました。

:ルカによる福音書18章 9-14節
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。
私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

宣教題「ファリサイ派の正義」
『自分は絶対正しい』という確かさを求め、正義の保証を得ることが第一目的となる、自己義認のための
“信仰”は、陥りやすい“誘惑”である。
「キリスト教こそ唯一の正しい宗教」「他の宗教はサタンである」として起こした宗教戦争もあった。

 神こそ義であって人は義であり得ず、神の義によって自分の罪、過ちが明確になり、裁かれることによって神に近づくことができ、裁きを求める、という信仰があった(詩編119)。
 神の義をこそ求めていた民たちが、世の義ばかりを追いかけて神を忘れ、裁かれることを恐れ続けているとイザヤは語ります(イザヤ64章)。
 自分を義とするために信仰を利用する罪について、イエスによるファリサイ派と徴税人の喩えがあります。ここで示されているのは、義なる人と不義な人とを明確に分け、自分が義の側にいることを信じて疑わず、感謝し、不義とされる人を“非人化”し、更に卑しめ貶める信仰です。まさに傲慢な選民思想ですが、ここにいったんはまると、自らの傲慢の罪に気づくことは難しいのです。

 現在パラリンピックが“緊急事態宣言”下で行われている。1896年アテネオリンピックから5体満足で身体能力が秀でている者を対象とし国家間の威信をかけてメダル争いが行われてきました。パラリンピックの始まりは傷痍軍人のリハビリとして行われたアーチェリー大会が起源で、1960年のローマオリンピックのあとに別の大会として車椅子を補装具とする人たちの競技から始まり、その後四肢欠損、視覚障害、聴覚障害、2000年には「全ての障害者の祭典」と、知的障害者枠を設けた。誰でも参加できるスポーツ祭典ならば人を(健常者)と(障害者)に分け続けていること自体矛盾です。一つのオリンピックに統合できるはずです。身体機能のハンディキャップと、精神の問題(知的ハンディ、神経、自閉、精神病etc)を同じ“障害”で括ること自体に無理がある。無理を押してでも「健常」と「障害」の美しい調和を演出しようとするところにファイリサイ派の信仰義認、傲慢がある。非常事態下で国家的祭典自体があり得ない。

先週の出来事
 児童虐待年間20万件超えのニュース。児童相談所が通報を奨励し、地域監視が強まり、保護・隔離、親権停止などで家族関係に介入することが、結果的により被害児童、保護者を地域から孤立させている現実もある。楽隊や子ども同士のいじめなどに児童相談所がどこまで強制的に介入する権力を持ち得るのか、強制力の執行がどこまで一般社会から理解を得られるコンセンサスを持っているか、職務全体の透明性を確保できているかはかなり疑問である。

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