20210905 SundayService Linggo ng serbisyo 東淀川教会 宣教題「パウロよりもイエスを」担当 金田恆孝

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本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書55章 1-2節
さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。金のない者も来るがよい。買って、食べよ。来て、金を払わず、代価も払わずにぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは糧にもならないもののために金を支払い 腹を満たさないもののために労するのか。私によく聞き従い 良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたの魂は 豊かさを楽しむだろう。

マルコによる福音書/ 9章 41-42節
よく言っておく。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
「また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。

コリントの信徒への手紙一 13章 1-13節(抜粋)
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。(中略)それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。

コリント人への第一の手紙/16章 21-24節
ここでパウロが、手ずからあいさつをしるす。もし主を愛さない者があれば、のろわれよ。マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
わたしの愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にあるように。

 

宣教の要旨「 パウロよりもイエスを」


1990年に大ヒットした、KANの歌がありました。

「♭心配ないからね 君の想いが 誰かにとどく明日がきっとある 
どんなに困難でくじけそうでも 信じることを決してやめないで carry on carry out …
愛される喜びを知っているなら 信じることさ 必ず最後に愛は勝つ♭」

 同じ頃、“愛は地球を救う”なんて番組やフレーズも流行りました。

キリスト教が日本に広まった時、パウロの“それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です”の聖句とともに、「神は愛なり」の文句は盛んに用いられました。(KANの歌と一緒くたにすると叱られそうですが伝わってくるメッセージはよく似ています。)

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。(ヨハネ第一の手紙4:7-8)」パウロの手紙が最初に書かれたのは54年頃。共観福音書の中で最初に成立したマルコによる福音書が65〜70年頃。ヨハネによる福音書fの成立時期はおよそ90年以降、100年前後と思われます。


神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネによる福音書3章 16節
あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。13章 34節
父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい。15章 09節
 これはキリスト教というよりもパウロ教だと感じます。

 ヨハネによる福音書の「愛」は明らかにパウロの“愛の讃歌”に由来し、パウロの「キリスト論」をもとに「イエス伝承」を再構築しています。

 一つのことばに“最も重要なこと”を集約・代表させ、「これさえ覚えていれば(これだけ唱えれば)、他は付随的なこと」という宣教は、人々の心を掴むのにとても効果的です。仏教なら「一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」(全ての人に仏が宿っている)に近いのでしょうか。

 パウロの伝道でこの「愛」(アガペー)は中心的かつ大切な概念として用いられ、それによってキリスト教はギリシャ文化の世界、異邦人に広まったと言えます。もはやユダヤ教の律法も預言者の言葉も瑣末なこととして後ろに過ぎ去った、というニュアンスです。日本人にキリスト教が広まった時の重要なフレーズであったことは確かでしょう。

 イエスが語ったのは、良きサマリア人の話もそうですが、愛の概念ではなく、“倒れている人がいたら、一杯の水を持って駆けつけなさい。あなたは神の祝福から漏れることはない”のメッセージであり、“自分自身をかけがえのない存在だと思うと同じように隣人を掛け替えのないものとして大切にしなさい”という行動への促しです。

 戦時下において、プロテスタント系諸教団が信仰や信条によってまとまったのではなく、天皇を中心とした国家の翼賛体制として国家の都合で作られた「日本基督教団」は、敗戦後、積極的な戦争協力を果たしたこと、アジアの植民地支配に協力し、それを「キリスト教伝道活動」としたことなどの間違いを認め、罪を懺悔し、日本基督教団は解散すべきでした。信仰の一致など初めからなかったにもかかわらず、ずるずると「日本基督教団」の看板を掲げ続けたのは、“日本で最大のプロテスタント教会の集まり”という「勢力」の大看板を社会的信用として利用し続けているメリットなのでしょう。1970年代に「教団の罪、我々の罪をちゃんと認め、告白しよう」の機運が高まった時、多くの教会、キリスト者がそっぽを向きました。「戦争協力したとか、天皇とイエスを並べて崇拝したとか、植民地支配に協力したとか、それらは全て二義的、三義的なこと。神の愛を伝えることこそ大事」ということばでした。

「愛が全ての問題の解答であり、宗教の目的、私たちの教団の目的、人類の最も重要な目的」として、それ以外の事柄を二義的、三義的なこととして向き合えなくなった時、それは「自分たちだけの独善的な教義に酔いしれている」「宗教は阿片である」という批判にさらされることになります。 一つの言葉・概念・信条がその個人にとって最も有益な思想・信仰を言い表している、私の生きる意味だ、目的だ、という自己理解は自由ですが、それがいわゆる独善的・観念的な自己肯定だけに止まらず、隣人や他者を測る物差し、裁く基準となり、「救済条件」「選民思想」「他者の選別基準」に繋がると、いわゆる“観念と現実の逆転”が起こったことになります。いわば、本来、向き合わなければならない現実の課題(例えば、どうしたら殺し合いを避けられるか)を、自分が大切にしている概念の課題(大切な家族や仲間を守ためには我々の敵である人は殺してもかまわない)にすり替えてしまうことです。聖書の中の“観念と現実の逆転”の構造をパウロ主義とし、「パウロ主義批判」を通して聖書と向き合おうとする提言が行われたのですが(自牧蓮)、提言が各教会、キリスト者に届かなかったのは、組織のそもそもの成り立ちと国体翼賛体制での実態を懺悔し、組織を返上し、解消しない限り、戦争責任論も実体化するはずがないのでしょう。「組織はこのままにして、信条や信仰の違いを認めあう公同教会として再出発すべき」などの提言もあるようですが、明らかなゴマカシです。“神の奇しき御わざにより集められた組織”などは詭弁そのものです。まさか、無理矢理結婚させられて、考え方、信仰が違うと喧嘩し続けて、でもキリスト教だから離婚はできない、などと考えてはいないと思うのですが。やはり、一番大きな、日本で歴史あるプロテスタントの教会の団体、という大看板に太平の夢を託しているのでしょう。

先週の出来事

18歳以上の若者を対象としたワクチン接種が始まった。更に12歳以上(中学生)への接種も許可(?)とのこと。本人の決断? 親の決断? 学校の決断? それらは曖昧なまま、なし崩し的にワクチン接種が暗黙の義務として広がっている。コロナウィルスの実態、少年たちの罹患や死亡率、ワクチンのリスクと効果等の検証よりも、周囲に迷惑をかけないために、という「同調圧力」がますます強まっていると感じる。明らかな独裁体制ではないが「全体」はかくあるべし、「全体」を受け入れてこそ「個」がある、という全体主義が、ますます「個」が個であることを窒息させている、ないしは死に至らしめている時代だと感じる。「私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状態にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。」全体主義の無言の浸透に抵抗できなくとも、長いものに巻かれながらも、ハンナ・アーレントの言葉を思い出しながら、滅びの日まで考え続けようと思う。

 

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