20211017 Sunday Service 宣教題「選別の時代に」担当 金田恆孝
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書 57章 15節
高みにおられ、崇められ 永遠におられる、その名が聖である方が こう言われる。私は高く、聖なる所に住み/打ち砕かれた人、低められた人と共にいて 低められた人の霊を生き返らせ 打ち砕かれた人の心を生き返らせる。
マルコによる福音書2章 1〜12節
数日の後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。大勢の人が集まったので、戸口の辺りまで全く隙間もないほどになった。
イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が体の麻痺した人を担いで、イエスのところへ運んで来た。しかし、大勢の人がいて、御もとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根を剝がして穴を開け、病人が寝ている床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、その病人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中で考えた。
「この人は、なぜあんなことを言うのか。神を冒瀆している。罪を赦すことができるのは、神おひとりだ。」
イエスは、彼らが考えていることを、ご自分の霊ですぐに見抜いて、言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
この人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に言われた。
「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」
すると、その人は起きて、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚嘆し、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を崇めた。
宣教の要旨「選別の時代に」
復活し、今もこの世で私たちの前を歩んでくださっている主イエスのことばを「今、ここで」わたしたち一人ひとりに語られていることばとして聴きたいと願います。
「主なる神は、世にあって打ち砕かれた人、低められた人と共にいて、低められた人の霊・魂を生き返らせ、打ち砕かれた人の心を生き返らせる」とイザヤは語ります。主イエスは、神の言葉を実現するための働きを続けられました。
麻痺と、それが「罪」の結果であると宣言されている人を放っておけず何とかしたい友人4人がイエスのもとに運んできた。その「友の苦しみを何とかしたい」と立ち上がった思いをイエスは「信仰」と言い、「原因の罪は神が許した」と宣言した。病を診断し、病名を付け、原因の因果関係を決め、処置や処遇を決めるのは祭司長(現代なら医師)だった。社会の健常者と病者を選別し分けるシステムを無効にするイエスの行いは反社会的行為だ、と思っている学者たちに向かってイエスは語ります。「神殿が律法で定めている罪と病の因果関係を一応認め、それに配慮したから、信仰により罪が許された、と宣言したのだ。そんな神殿の権威や診断や病との因果関係を無視したら、こうなるよ」「人間なら誰でも隣人の苦しみを分かち合い、ともに癒されようとするなら、(診断など関係なく)主なる神は癒してくださることを知らせよう」と言い、「立って担架を担ぎ、歩いて家に帰りなさい」と言うと、彼は歩き出した。
現代社会は「高度な生き辛い社会」となり、「社会不適応者」が増え、保護・治療・福祉などの“きれいごと”のもとに、子どもから老人まで様々な診断名・分類・処遇が濫発される「選別社会」が進行していると感じられる。出生数は減少しながら不登校児童は増加し続け、発達障害、自閉症などの診断のもと、“支援のための選別”、子どもへの向精神薬投与も増え続けている。“きれいごと”のために多額な予算が使われるのは社会の損失、と英雄気取りで行われた相模原障害者施設45人殺傷事件が私たちに突きつけている問いはあまりに重たい。
人は誰でも神の子。一人の生きづらさを何とかしたいと立ち上がる隣人たちの働きへと私たちはイエスから招かれている。
先週の出来事
愛媛県新居浜市で1年以上“盗撮止めろ、電波攻撃を止めろ”など双方から被害の相談を受けていたにもかかわらず、「具体的加害被害の実態が不明」と警察が事件化を防ぐための対処をせず3人の死亡者を出した事件。民事不介入の原則で、人と人との争いに警察が介入しにくいのだろうか? 事件後ではなく、事件化予防のために動く警察であるためには何が変わらねばならないのか?