20220227 礼拝宣教要旨「王や国に頼ってはならない」イザヤ書2章 マルコ福音書13章 担当 金田恆孝
イザヤ書2章 3~6節
多くの民は来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」と。教えはシオンから 主の言葉はエルサレムから出るからだ。主は国々の間を裁き 多くの民のために判決を下される。
彼らはその剣を鋤に その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず もはや戦いを学ぶことはない。ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう。あなたは、ご自分の民 ヤコブの家を見捨ててしまわれた。彼らがペリシテ人のように 東方からの占い師と卜占する者でその地を満たし 異国の子らと手を結んだからだ。
マルコによる福音書13章7~8節
戦争のことや戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
マルコによる福音書13章14節
「荒廃をもたらす憎むべきものが、立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
宣教の要旨「王や国に頼ってはならない」
イザヤの時代(BC730)、「ヤコブの家」(=イスラエルの民を守る国家・王国)を神は見捨てた、とイザヤは語る。武器で自分たちを守ろうとする考えを放棄せよ、武器を農具に打ち直せ。「国があってこそ民は守られる」という考えを捨てよと迫っている。
そして現代。
長期的な、世界的なコロナウィルス騒動、不安が蔓延する中で、人々は心のゆとりを見失い、情報の氾濫に対しても何が正しいかを取捨選択できないまま不安ななかでニュースに耳を傾けている。そしてロシアによるウクライナ侵攻、攻撃。
戦争は、単純な「侵略」でも「犯罪」でもない。追い詰められ攻撃に移ったロシア側の背景は見えにくい。
民族間の対立が作り出され、予測もつかない地震に襲われたり自然と人間とのバランスが崩れて飢饉が起こったり伝染病や不明なウィルスが蔓延したり、自殺や他殺が増えたりもする。いわば、社会そのものが因果関係も分からないまま、心身ともに病んでいるカオス状態が訪れているように感じる。「戦争」はそれらの現象の一端なのだろう。そんな中で、影響力の強いカリスマ的な指導者・支配者が現れ、ファッシズムが圧倒的な力を持ってしまい、同調圧力が高まり、だれもそれに逆らえなくなる…。そんな時代に今近づいているように感じられる。 そうなる前にイエスは、「逃げなさい」「躊躇せずににげなさい」と語りかけられる。津波も戦争も山火事も、本当は人の意見を聞いている暇も、専門家の意見を聞いている暇もないのだろう。危険を察知する動物的な直感を取り戻すしかない。
安心して一目散に逃げるためには、受け入れてくれる場所が必要になる。新たな戦争が始まった今日、難民を受け入れる町、洲、国こそが求められている。侵略したロシアに対する非難、撤退要求とともに、日本がウクライナに対して難民受け入れを表明するならば、「剣を鋤に その槍を鎌に打ち直す」道に一歩近づくことができるのではないか。
先週の出来事
国連でロシアが拒否権を発動し、ロシアによるウクライナ侵攻についての非難・国連決議ができなかったとのこと。国連そのものが民主化されていないなかで、民衆の声が国連に届くようになることを祈りたい。