20220313 礼拝宣教要旨「がっこうは何のため」イザヤ書11章 マタイ福音書7章 担当 金田恆孝
礼拝順序
讃栄 546番 主の祈り 讃美歌246神の恵みは 共同の祈り 讃美歌320主よみもとに
宣教 讃美歌512我が魂の慕い奉る 聖餐式 奉献64真心込め 頌栄544天つ御民も
祝祷
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書11章 6節~9節
狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。
子牛と若獅子は共に草を食み 小さな子どもが それを導く。
雌牛と熊は草を食み その子らは共に伏す。
獅子も牛のようにわらを食べる。
乳飲み子はコブラの穴に戯れ
乳離れした子は毒蛇の巣に手を伸ばす。
私の聖なる山のどこにおいても
害を加え、滅ぼすものは何もない。
水が海を覆うように 主を知ることが
地を満たすからである。
マタイによる福音書7章 9~11節
あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、
自分の子どもには良い物を与えることを知っている。
まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。
宣教の要旨「がっこうは何のため」
イザヤの描く「狼は子羊と共に宿り…小さな子どもがそれを導く…乳離れした子は毒蛇の巣に手を伸ばす…」は、人間の意識や理解なんぞ届かぬ、天然・自然の神秘に満ちた「神の国の調和」を詩的に表現している。そして「赤子・子ども」もいのちを吹き込まれた動物でもあり「自然」の一部であることを表現している。
現代社会は「赤子や子どもは神さまに守られている」という感覚・実感からもっとも遠くなった時代なのだろうと思う。日本は江戸時代以降、文字やソロバンを教える寺子屋などがあり、アジアの中でも高い識字率を保っていた。がっこうの基本は遊びの基地であり「読み書きソロバン、諸書の読み聞かせ」だった。
時代は「地方」から「都市」に移り、脳機能の偏差値と学歴が序列の基準となり、はじめから備わっていた個性・属性は「優生」・「劣生」に振り分けられ、劣生は「障害」「病気」として治療や訓練や介護や保護と称する干渉を受け続けることとなり、こころの自由はなくなっていく。嫌いな勉強はしなくってもいいと言ってくれる親はとても少なくなった。
かつての精神薄弱などのことばに代わり「発達障害」という概念が作り出されたとき、一人ひとり異なる身体や脳の成長でこぼこなのだから、病気ではなく、治療の対象でもない、向精神薬の必要はないと、向精神薬治療に心を痛めていた医師たちは喜んだ。が、いつのまにか様々な障害名、疾患名が「発見」され、「社会」への適応を目指すべき「障害」「病気」と見做され、幼児期から向精神薬を服用することさえあたりまえの風景になってきた。受精卵の段階から検査をして「優生劣生」を判断し選別や排除が可能となり、クローン人間作成すら手が届きそうになった時代。子どもの出生率は下がり続け、中高生、青年期の死亡第一原因が自殺となった現代。不登校児も青年期・壮年期の引籠りも増え続けている。様々な障害や疾病の「発見」や、治療や、訓練、特別支援などの「干渉」が、現代の子どもたちにとって、はたして良いものなのかどうか、大きな疑問を抱えているのが現在の状況なのだろうと思う。
「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。」とイエスは語りました。しかし、何が、この子どもには良いものであるかが見えにくくなっているのが現代だと感じるのです。
“パンを欲しがる自分の子どもに石を与えている” “魚を欲しがるのに蛇を与えている”のが現代社会ならば、せめて、親としてはダメな大人であっても、子どもたちには良いものを与えることを知っているおとなの一人でありたいと主に願い求めたいのです。
先週の出来事
教護院(現在の児童自立支援施設)に収容されていた1957年、仙台市の病院で手術を強制された男性(78)。旧優生保護法に基づく強制不妊訴訟の控訴審判決で逆転勝訴とのニュース。優生保護・劣生排除というナチスのような現実は、形や姿を変えて、今日も続いている。