20220327 礼拝宣教要旨「主のバーベキュー」(焼き尽くす生けにえをめぐって)担当 金田恆孝
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
出エジプト記13章 2節
「すべての初子を聖別して私に献げなさい。人も家畜も、イスラエルの人々の間で初めに胎を開くすべての初子は私のものである。」
レビ記6章 2節
「アロンとその子らに命じよ。これは焼き尽くすいけにえについての指示である。焼き尽くすいけにえは、夜通し朝まで祭壇の炉の上に置き、祭壇の火を燃やし続ける。
レビ記27章 30節
地の作物であれ、木の実であれ、大地の産物の十分の一は主のものである。それは主の聖なるものとなる。
詩編50編 12-13節
たとえ飢えても、あなたには言わない。世界とそこに満ちるものはすべて私のものだからだ。私が雄牛の肉を食べ 雄山羊の血を飲むことがあろうか。
マルコによる福音書12章33節
そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています。」
宣教の要旨「主のバーベキュー」
「焼き尽くす生け贄」とは、一部の聖書解釈のように、「献げられた肉を完全に焼き尽くして、人は食べない」と理解すべきではなく、「献げられた肉のすべてをよく焼いて、集まった全ての人が充分に食べられるように提供すること」と理解すべきであると思う。三大祭りのひとつ「仮庵の祭」こそがそれをあらわしている。
仮庵の祭とは太陽暦10月頃7日間の祭(スコット)で、後の秋の収穫祭へと繋がってきた。かつては、アブラハムを父とする人々が集まってくる。七日間、毎日夜通し「焼き尽くす捧げ物」が捧げられたという。捧げ物は聖別され(ヘーレム)焼き尽くして(オーラー)神に捧げ、その香りに神が喜び、焼かれた肉や食べ物を自由にとって食べることができた祭。民数記24章13節によれば、1日に雄牛13頭、御羊2頭、子羊14頭が焼かれた、などが記されている。
この貴重な食料、肉を食べずに焼き尽くすはずもないし、これほどの焼き肉の香りを神が宥(なだ)めの香りとして求めるはずもない。(詩編50編 12-13節)
「捧げ物を焼き尽くす」のではなく、「よく焼いて」「丸焼きにして」「バーベキューにする」と理解すべきでしょう。
日本の、山の恵みや海の恵みや食物を神に捧げ(奉献)、直会(なおらい)の場で神からいただいた恵みとしてみんなで分かち合って食することと同じと思う。分かち合い、共に食し、生かし合うための「主の食事」。今日、教会で行われている「聖餐式」はイエスが復活させた「主の食事」として理解したい。
この「焼き尽くす」という概念や「聖絶」など、イスラエルの“戦闘行為”を正当化する言葉や概念として用いられ、異教の信仰を攻撃することを「聖戦」・アナテマ(ギリシャ語)として正当化した。イスラム教のジハード(聖戦)もこの流れを受けていると感じられる。今日、戦争を止めるため、過ちを犯し続けてきた宗教者の役割、責任は大きいと思われる。
先週の出来事
○某キリスト教系「証しの幕屋聖殿」という宗教集団(韓国でコロナウィルスによるクラスターを発生させたとして活動禁止処分を受けた?)から「現在の戦争はヨハネ黙示録のとおりだと思いませんか?」「私たちの話を聞いてもらえませんか?」というお誘い? お申し込み?があった。教祖のイ・マンヒは統一協会の朴泰善に教理を学んだとか。長時間お話しさせていただいたが、何だかなあ。