20220619 東淀川教会 礼拝宣教要旨「マタイとマルコの伝える“イエスの癒やしのわざ”の差

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聖書 マルコによる福音書10章46〜52節
一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、また見えるようになることです」と言った。イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
マタイによる福音書9章 27~31節
イエスがそこから進んで行かれると、二人の盲人が、「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫びながら付いて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「私にできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触れ、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、誰にも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。
マタイによる福音書 20章 29~34節
一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスに付いて行った。すると、道端に座っていた二人の盲人が、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
マタイによる福音書9章 32節
二人が出て行くと、人々が、悪霊に取りつかれて口の利けない人をイエスのところに連れて来た。マタイによる福音書12章 22~24節その時、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、連れられて来て、イエスが癒やされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「まさか、この人がダビデの子ではあるまいか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。


20220619 宣教要旨 「マタイとマルコが伝えるイエスの癒やしのわざの差」
イエスの十字架より30年以上経ってマルコによる福音書が書かれ、時を経てマタイによる福音書が書かれたとされています。福音書執筆は限られた範囲(紙面)に収めるための出来事・記事の選択や文字数の制限等で四苦八苦したはず。しかしマタイによる福音書にはおや?と思われる重複記事があります。そのひとつが9章27-31節と20章29-34節の「二人の盲人」及び9章32-34節と12章22-24節の「口の利けない人」です。 

私の理解では、イエスの「癒しのわざ」は一対一の向かい合いの関係(カウンセリングの関係)で、それぞれ相手によって異なる方法で行われていたと思われます。原因となっている原因(悪霊)を取り除いたり、悪霊に離れるよう命じたり、本人が原因だと信じている因果関係に無効宣言(罪は許された!)をしたり、願いを聞き届けたりとさまざまでした。しかも、直接患部に触れて、施術者イエスに伝染させるような方法が多いのです。いわばイエスたちの『受苦能力』とでもいうべき、病を引き受けるちからの大きさを感じるのです。更に、治療者「イエスやイエスの仲間たちが」持っている高い治癒能力によって癒すというよりも、「神が直接働きかけている」のであり、イエスは神の働きを執り成ししている、代行している、というイメージです。イエスの言葉「あなたの信仰があなたを救った」とは「神があなたを救った」と同義と思われます。それは、心身の病んでいるひとりひとりの「神の子」としての栄光や祝福を取り戻すための手伝いと感じます。
マルコの記事では個人は名前によって特定され、「また見えるようになること」と、病歴は具体的です。

マタイでは、二人の盲人への治癒が二度取り上げられ、それぞれの固有性や事情などは曖昧なまま、イエスの治癒能力が強調されています。マタイ12章では、目が見えず、口の利けない人、つまり一人の中にある「視覚障害」と「聾唖障害」をまとめて治癒したという記事があります。もしも二人同時の治癒が可能なら、あるいは異なった病気や障害をまとめて治療することが可能だったのならば、治療を求めて押し寄せてきた数多の病める人々を、まとめていっぺんに治癒することも可能だったはずと思うのですが、多数・集団を対象とした治癒行為は他にありません。

マタイ福音書が伝えたかったイエス像は、イエスこそ神が遣わしたメシア、飛び抜けた治癒能力者=スーパースターという宣教が主眼だったと感じられるのです。
イエスの十字架から数十年経ってからの福音書ですから、治癒行為の生々しいリアルな証言は口伝だけであり、“十字架で死刑となったイエスの仲間”への追求から逃れていたのであり、文字化されたリアルな証言はほとんど望めないのでしょう。しかし、イエスやその仲間たちによる「病める人」への連続した治癒行為はなんであったのかを考える時、この「差」は丁寧に読み取っていくべき事柄だと思われます。


先週の出来事 屋外ではマスクを外す派が50%を超えたとの世論調査報告。でも外を歩いていると7割以上の人がマスクをしているように感じられる。外であろうとマスクをしていることが他者への「配慮」の証明、という倫理観・同調圧力のようなものを感じる。日本人はかくも倫理的民族だったのかしらん?

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