20220703 東淀川教会 礼拝宣教要旨「選民思想を突き放すイエス」イザヤ書1章44章 マタイ3章9節 担当 金田恆孝

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7月3日 讃美歌
1.51 日陰しずかに
1.58 神よみまえに
1.512 我が魂の慕い奉る

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書1章 2節
天よ、聞け。地よ、耳を傾けよ。主が語られる。私は子どもたちを育て上げ、大きくした。しかし、彼らは私に背いた。

イザヤ書44章 24節
あなたの贖い主 あなたを母の胎にいる時から形づくられた方 主はこう言われる。私は主、万物を造った者。独りで天を広げ、自ら地を踏み広げた者。

詩編19章 15節
私の口が語ることと心の思いとが 御前で喜ばれますように。主よ、わが大岩、わが贖い主よ。

マタイによる福音書3章 9節
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

マタイによる福音書/ 7章 9-11節

あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。

宣教の要旨 「選民思想を突き放すイエス」
 これはイエスの爆弾発言のひとつでしょう。「自分たちはアブラハムの子孫であり、神に選ばれた特別の民族なのだ」という、ユダヤ人の民族的誇りに対し、「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」というイエスの言葉は、国の支配者たち、神殿を中心とした指導者たち、選民としての民族的な誇りをもった人々を怒らせた、“非国民”的発言だった。

「全ての人間は神がいのちを吹きこみ産んだ“神の子たち”なのだ。が、人々は神を忘れ、自分たちが世界の主人公のようにふるまい、「異邦人という敵」や、「汚れた人々」を作り出し、虐げ、罪を犯している」とイザヤは語っている。イエスの語る「神の子」という意味も、イザヤと同じだろう。

 神は万物と「いのち」の造り主、「親」であり、万人は「神の子」なんだ、子である人間は神の慈しみの対象であり、負い切れぬ重荷(災難、貧困、過ち、責任、病苦、ハンディなど)を、子が願えば(全知全能の神が重荷をチャラにしてくれるというのではなく)、親のように、子の代わりに背負ってくださる方なんだ、だから「贖いの主」と呼ぶんだ、という理解だと思われます。


 神が人間を「子」と呼ぶなら、子である私たちは、神を「おとうちゃん、おかあちゃん」と呼べば良い、というのがイエスのことばであり、「アバ、父よ、」の祈りも、「とうちゃん、かあちゃん、聞いておくれ」から始まる祈りだと思うのです。

「神」という言葉を自分たちの言葉で表現してはならない、という言い伝えがあり、聖書の記述にも反映されていますが、それ自体が万人、万世の神を、独占的かつ排他的に“自分たちの神”として理解する過ちを犯さないためだったと思われます。

「パンを欲しがる自分の子に石を与えるだろうか」とは、神を親のように感じ、本当に必要な物を願えば、親である神はそれを与えてくださる」とイエスは語られたし、今も語っておられる。

 現代社会に目を転じれば、「洗礼を受けたキリスト者こそ神に選ばれた民である」という考え方や感覚も、イエスのメッセージからは遠いと思います。


 富国強兵をスローガンとした明治からの日本は、日本人こそ神に選ばれた「選民」であり、天が与えた帝の子たちであり、親である天皇が治める国家を守るためには命を捧げることも厭わない親孝行が求められました。敗戦後、戦争を過ちと認め、神と崇められた天皇は人間宣言をしましたが、日本国の象徴・中心としてのイメージと憲法条文は残っています。様々な国を敵国と見立てて富国強兵、核武装が目論まれている現在。「こんな石ころからでも神の子たちを作り出すことが出来る」(こんな石ころからでも天皇と天皇の子たちを作り出すことが出来る)とのイエスの声に、いまこそ耳を傾けたい。

先週の出来事
 参議院選挙。政見放送が行われていますが、天皇制や死刑制度についての言及は殆どないのが悲しい。

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