20220731 東淀川教会宣教要旨「脱出」出エジプト記三章 マタイ福音書10章
聖霊降臨節 第九主日礼拝
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
出エジプト記3章
すると、柴の間で燃え上がる炎の中に、主の使いが現れた。彼が見ると、柴は火で燃えていたが、燃え尽きることはなかった。(3:2)
神は言われた。「こちらに近づいてはならない。履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地である。(3:5)
主は言われた。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った。(3:7)
それで、私は降って行って、私の民をエジプトの手から救い出し、その地から、豊かで広い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、そしてエブス人の住む所に導き上る。(3:8)
モーセは神に言った。「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」(3:13)
神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」(3:14)
マタイによる福音書10章 23節
一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。
宣教の要旨「脱出」
イスラエルとは、定着生活、王の支配下の生活から脱出した移動の民、遊牧の民から始まった「神の声にしたがって神とともに歩む民(我々)」という自己理解、アイデンティティを示す言葉であり、血縁関係による民族を表すものではなかった。
エジプトの奴隷状態から救いを求める声が湧き上がったのは、「奴隷の子は奴隷」といった存在の定義に対し、かつての、神のみに従う「遊牧民・移動の民」の自己理解が燃え上がったからこそ、開放への祈りが生まれたのだろう。
たまたま奴隷状態から脱してエジプトの支配側にいたモーセであったが、イスラエル人奴隷を虐待する王の兵士に怒りがわき上がり、その兵士を密かに殺したが、守ったはずのイスラエル人から殺人者として密告され、指名手配から逃れ、逃避行を続け、安息の地をようやく見いだしたモーセだった。安息を手に入れてもエジプトで奴隷状態になっているイスラエルの民を忘れることは出来なかった。
「燃える柴」は、そんなモーセの内なる魂の火である。暗闇の祈りに瞼の裏に顕れる火。神の声が響いてくる。石器時代の太古より、狩猟民族は暗闇の洞窟に定期的に集い、目には見えない神の声を聴こうとしたと云われる。光のない闇の中で目を閉じたとき、やがて閉じた瞼の裏に燃える炎、動く光を感じ、それは目を開いてもそこに残る炎だった。そこから、文字以前の、共同のイメージ、壁画が生まれた、という学説が多々ある。モーセが見た「燃える柴」も太古からの暗闇の炎と繋がっている。
神はモーセに、解放を求めるイスラエルの民を、奴隷から脱出させよと語りかける。「私を派遣した神の名を問われたらどう応えるべきか」の問いに、“イスラエル民族の神・アブラハムの、イサクの神”と応えるのではなく、「在る」=「存在の神」=“全ての根源”と神は応える。今日の、民族や国教を超えた、グローバル世界を先取りしているとも言える。
聴いたイスラエル人は、口伝で伝えられた創造神話を通して、万物創造の神、目に見えるものの始まり、すべてのいのちを吹きこむ神、現代の言葉で言えば、時間を加えた4次元の世界の創造者をイメージできたのだろう。
イエスの時代。いよいよ周囲の人々にとっての危機を迎えたとき、「ひたすら逃げよ、山に向かって逃げよ、下着も取りに戻ってはならない」とイエスは語ります。また、「一つの町で迫害されたら他の町に逃げよ。イスラエルの町を回りきらないうちに人の子は来る=助けは来る」と語ります。
そして現代。大量の核爆弾が製造貯蔵されている現代社会。もはや戦争は不可能、と高を括っていた私たちの姿があります。なのに自爆テロは続き、国家間によるテロ=仁義なき戦い=戦争が起こり、銃乱射による大量殺人、刃物による大量殺人事件が続いている。
一方で、日本国内でも「外に出られる軍隊を持つべきであり、核武装すべき」「そのための憲法改正をすべき」の声が高まっている。「気分は戦争中」で息巻いて元気になる人々が増えている。
“戦争反対”という標語、民の声で国家にたがをはめよう、という試み自体が「共通の、大切な理念」としてちからを持たなくなっている。
“人など殺さずに生きられる”=殺し合わなくても生きられるのか。そのためには、“にっちもさっちも動けない”、“敵・味方の関係”、支配する側・支配される側のどちらかにしか身を置けない、といった、追い詰められたところから逃げるには脱出するしかないのだろうが、現代社会は「脱出」の手だてが見いだせない社会なのだと感じる。匿名での逃避行も許されない。ワケありの人が逃げ続ける術がない。国家から迫害されたり、国家の守りを失った人々を“難民”とする定義もあるのだろうが、逃げ場を失っている人々こそ第一の「難民」だと思う。現代の「逃げ場の無さ」、現代日本の、20代、30代世代の死亡原因の第一位が自殺であることがそれを如実に示している。ひとりでは死にきれず、多くの人々を死に巻き込んで死のうとする心理は、是非は別として理解できます。死で終わらせるのではなく、逆に生きて、関係を強いてくるものに向き合って対峙する、対決する道は、現代社会にはないのだろうか。“行政の福祉課に相談しなさい”でも“警察に相談しなさい”でもない、手を差し伸べてくれる「人の子」は現れないのだろうか。イエスに従う教会は、その「手」となれないのだろうか。
わたしたちは「正しい答え」の前に立てない。逃れようのない問いの前に立たされている。モーセの如く、眼を閉じて、瞼の裏から始まる燃える炎を見つめつつ、主の声を聴きたい。
先週の出来事
山上徹也容疑者からカルト問題のルポライター米本和広宛手紙の一部がネットに流れています。
「世界中の金と女は本来全て自分のものだと疑わず、その現実化に手段も結果も問わない自称現人神(文鮮明)。私はそのような人間、それを現実に神と崇める集団、それが存在する社会、それらを「人類の恥」と書きましたが、今もそれは変わりません。苦々しくは思っていましたが、安倍は本来の敵ではないのです。あくまでも現実世界で最も影響力のある統一協会シンパのひとりに過ぎません。文一族を皆殺しにしたくとも、私にはそれが不可能なことは分かっています。」
おぞましい「人類の恥」を放置し、さらにそれすら「利用」し合ってきた権力者や追従する人々に向けて放たれた銃弾として理解できます。