20220911 東淀川教会礼拝 宣教要旨「人を裁けるほど人は偉くない」レビ記19:15ー16節 ルカ福音書6:37ー41節
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
レビ記/ 19章 15~16節
裁きにおいて不正をしてはならない。弱い者に偏ってかばってはならない。強い者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間を回って、中傷してはならない。隣人の命に関わる偽証をしてはならない。私は主である。
ルカ福音書6章37~38節
「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。人々は升に詰め込み、揺すり、溢れるほどよく量って、懐に入れてくれる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」
ルカ福音書6章41~42節
「きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。自分の目にある梁は見ないで、きょうだいに向かって、『きょうだいよ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。偽善者よ、まず、自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目にあるおが屑を取り除くことができる。」
宣教の要旨「人を裁くほど人は偉くない」
イスラエルの新年(ロシュ・ハシャナ)は9月末〜10日間(懺悔と学びの期間)で、10日目は贖罪日(ヨム・キプール)。一年間は懺悔・悔い改めから始まる。この期間、特に読まれるのがレビ記のようです。19章はモーセの十戒を中心とした学びの指標です。現代社会の私たちへのメッセージとして読み解いてみます。富者が貧者を偏って恵んではならない、とは、たとえばキリスト者が陥りやすい過ちでもあります。道を尋ねられれば親切に教えたがる日本人の姿があります。困っている隣人の助けになりたいキリスト者の姿があります。つい、自分の助けたい人を(偏って)助けようとする私たちの陥りやすい過ちがあります。
強い者におもねったり弱い者を見下してはならない、とは、鎖国を続けることで異文化との交流を避けてきた日本国の歴史があり、武力で近隣諸国を侵略した歴史があり、現在も強国に追従しながら戦闘態勢を増強したがる日本人の姿もあります。
「寄留者と対等に付き合いなさい。イスラエル人はエジプトで寄留者であったのだから」とは、高慢にならず、頑なにならず、対等、かつ利他的な人間関係を築くため、富者や権力者にありがちな、人を高みから見下ろす「傲慢」に陥る危険を強く戒めていると思います。
同胞や隣人を疑ったり悪人と裁きたくなったとき、タルムード・ミシュナー(ラビの口伝集、神の教えの口伝的な解説書)には、“もしも裁くなら当人に有利なように裁きなさい”というのがあるそうです。イエスの「隣人の目のおが屑を取らせてくださいと言う前に、まず自分の目から梁を取り除くべきです」(隣人や他者の過ちや間違いを指摘したり怒ったり非難したりする前に、自分自身の中にある偏見や思い込みや一方的な考え方などを自分自身で気づきなさい)のメッセージは、隣人の助けをしたいと思う日本人、キリスト者の犯しやすい過ちを避けるための、重要な助言・アドバイスを与えてくれていると思います。
現在、報道で「統一協会問題」を通して戦後の政治家たちと宗教との関係が問い直されようとしています。統一協会については、もともと「宗教」とはいえず、「宗教を偽装した危険なセクト」であり、その反倫理性、反社会性が裁かれるのは当然ですが、既成の大宗教団体が票田となって政治家や特定の党派を動かしている現実があります。
「性善説」に基づいて宗教法人が無課税なのは良いと思うのですが、統一協会問題やオウム問題があって「宗教って怖い・ヤバい」という風潮があるのならば、余計に「お金の流れ」や「組織の在り方・人事」や、「教義・内部の法」などは協力者や信徒たちにオープンにされているべきだと思いますし、宗教団体の「透明化」「見える化」は図られるべきだと思うのです。東淀川教会は役員会の議事録もお金の流れも「すっぽんぽん」に見えるようになっています。
現代、コロナウィルスワクチン接種効果よりも、ウィルスに罹ってこそ得られる自家免疫力の方が感染を防げるというデータが広がってきており、諸外国ではマスクを外しつつあります。この国では感染への恐怖からまだまだマスクが外せない人は多く、自己判断で防衛のためマスクし距離を取るのは自由ですが、自己判断でマスクをしない人を“裁く”風潮が残っています。何が誰にとっても正しい答え、正解なのかは曖昧でありそれぞれの思い込み先週の出来事
三権分立なのに、国会も司法も無視して内閣判断だけで国家的宗教行事「国葬」を、多くの反対意見を押し切って強行しようとしていることは同意できませんし、国際的にも恥ずかしいことだと思う。少なくとも、この国は、もう少し“恥を知る”文化ではなかったでしょうか?
も偏見もあります。多様な思いがあって影響し合って良いはずです。
何が正しいか、ではなく、私の「不安」や私の「偏見」など、私の目の「おが屑」に自分で気づき、修正するためにも、互いが互いを利するための(おたがいさまの)「思いの交流」ができたらと願います。それが教会の交わりの中で実現できたら、そしてそれぞれの人間関係において実現を図れたら、それは主イエスにホメられることと思うのです。
先週の出来事
三権分立なのに、国会も司法も無視して内閣判断だけで国家的宗教行事「国葬」を、多くの反対意見を押し切って強行しようとしていることは同意できませんし、国際的にも恥ずかしいことだと思う。少なくとも、この国は、もう少し“恥を知る”文化ではなかったでしょうか?