20230521 復活節第7主日礼拝 宣教要旨「姦淫って何?」レビ記20章 ヨハネ福音書8章
聖書箇所
レビ記 20章 10節
人が他の人の妻と姦淫するなら、すなわち隣人の妻と姦淫するなら、姦淫した男も女も必ず死ななければならない。
ヨハネによる福音書8章 2-11節
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御もとに寄って来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
イエスに言った。「先生、この女は姦淫をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書いておられた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」〕
「姦淫って何?」宣教担当 金田恆孝
イスラエル民族もアラブ民族も古代より「結婚のお祝い」は数日間かけて行う盛大な祭りでした。一族の連帯を確かめ合う重要なセレモニーでもあり、みんなで二人や家族を祝福する祭りですが、もう一方で、「この二人は1組のパートナーであることを公に宣言し、みんなで祝福したのだから、この男やこの女に他の人が手を出してはいけない(惚れてはいけない)という暗黙の契約を含むのが“結婚のお祝い”でした。
もともと人の「性」は神が与えた聖なるもの、神秘的なもの、祝福されたものであり、人が他者や他の「性」や性的関係を、女とはこうあるべきであるとか、男とはこうあるべきであるとか、男女はこうあるべきであるとか、決めつけたり、一方的に「何々は悪だ」とか決めつけたり、自分の思い込みを基準として他者の性や性的関係を罪として裁いたりするのは「越権行為」なのでしょう。
レビ記の規定は、「男女のパートナー・夫婦契約はみんなで尊重しましょう」の別表現であり、裁きを伴う厳格な律法ではありませんでした。「姦淫を犯す」という意味のヘブライ語の語根はナーアフで「性的逸脱」を指しています。
アブラハムから始まる族長たちの物語にも「性的逸脱行為」はたくさん記されていますし、最も尊敬されたダビデ王も、バトシェバと姦淫し、彼女が子供を宿したことがわかると、夫のウリヤを戦死させました。 ダビデが犯した姦淫と殺人というふたつの罪は、律法を厳格な基準とすれば、いずれも死罪にあたる大きな罪であるのですが、「裁き」は神に委ねられる、ということになるのです。
イエスの「しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである」(マタイ5章28節)は、自分の本質は隠し、他者の性について断罪したがる「男たちの意識」を断罪しています。
“姦淫”しているときに捕まった女、とは、当然男がいたはずですが男がいないこと自体、女を連れてきた男たちがイエスから“断罪”されています。「もう罪を犯さないように」は、“性的逸脱”を「神に対する罪」として、新たな律法化を目論んだ、パウロや初期キリスト教会の付加なのでしょう。
現代、風俗で働く女性や男性を差別し断罪したがるフェミニストやキリスト者が気になります。イエスは「人を裁くな。裁かれないためである」と語り続けています。
もともと神秘的である「性」にはいくつかの側面があると指摘されています。①肉体として男女に分けられる性 ②自分自身に対する認識としての性 ③ペア、パートナーとして求める、選びたい性 ④衣装や髪型など、表現したい性。更には⑤無性的人間、どちらも選んだり表現したりしたくない人もいます。
人間が自分の利己的な考えで結婚相手を選ぶことが「罪」であり、結婚相手は神に委ねるべきだ、と「合同結婚式」を続け、神秘でありコンプレックスでもある性を利用して“原罪論”を吹き込み、人々を組織の奴隷にしている統一教会のようなトンデモ組織もあります。
神から与えられた人間の、一人ひとり異なる「性」や「性差」は、人間の経験や意識なんぞで解釈したり規定したり、自分の考えから逸脱したものを「悪」として裁いたり差別したりするのは、やはり神に対する越権行為なのでしょう。
こどもから大人に変わる「思春期」は、人が性について最も悩む時期・季節ですが、その悩みや心の葛藤を打ち明けたり、分かち合ったり、共感しあったりする人間関係・友達関係そのものが壊れている時代のようです。2008年の「秋葉原通り魔事件」を思い出します。SNSなどによるネットでの「いいね!」を集めたがる「おしゃべり」に満ち満ちた時代の方が、承認されなくていいモノローグは聞いてもらえず「大切な、オープンではない友達関係」はますます無くなっていくのでしょう。
イエスに従おうとする教会に、今、何ができるのだろうかと考えます。
先週の出来事
爆心地ヒロシマで行われているG7広島サミットのセレモニーがニュースとしてTVで映し出されています。これを見て、ロシア・ウクライナ戦争が終わりに近づく、とか、核兵器廃絶に一歩近づく、などと感じられる幸せな人は何%いるのでしょうか。