20230528 精霊降臨日・ペンテコステ礼拝 「霊の守りと導き」使徒言行録2章
使徒言行録2章1〜13節
五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、
突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国出身の信仰のあつい人々が住んでいたが、
この物音に大勢の人が集まって来た。そして、誰もが、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられた。
使徒言行録2章 40節
ペトロは、このほかにも多くの言葉で証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と言って彼らを励ました。
2章44−47節
信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、
神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである。
宣教要旨「霊の守りと導き」
「霊」や「霊魂」という言葉は、近世までは、決して自明な言葉ではなくとも、軽んじることのできない大切な言葉でした。現代では、「宗教」や「信仰」とともに非科学的だとかカルトだとか、迷信だとかの嘲笑の対象にすらなっている“貧しい”現実があります。そんな現代人でも、「死んだ親(仏となった親)や先祖の霊に守られている」と、墓参りやお盆などの宗教的行事を欠かさない姿もありますから、心の深いところに残っている重要な感覚は残っているわけです。ちなみに神道の後に入ってきた仏教の教えた「ほとけ」という概念は、“神様の、目に見えない力”、キリスト教でいう「聖霊」と同じだと思います。仏教が「神」という言葉を用いなかったのは、仏教が伝えられた時代、米作りと田んぼの登記をベースとした律令制度が広まり、神は藤原族など、一族の守り神「氏神」、土地の守り神という理解が主流となっており、普遍的な「神」という言葉が使えなかった、という歴史学者の意見もあります。
本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。聖霊がそこにいるみんなの上にメラメラと降りた、という事件の記念日です。そのあと口火を切ったシモン・ペトロを中心に見直したいと思います。ペトロはガリラヤ湖周辺の漁師で、おそらく文盲であり、朴訥とアラム語を喋る、思いやりはあるが熱し易く冷め易い、損得と安全が基準で、そのときその時の感情のままに行動する、頑固者(岩というあだ名)で、思慮は浅いが上昇志向の少ない、平民そのものの姿だったと思います。あえて言えば、映画の寅さん「寅次郎」に近かったのでは、と想像しています。
現実主義者で忠誠心は強いのに、そのイエスから最も叱られ、頼りのイエスの処刑に失望し、パニックとなって「イエスなんて知らない!」と逃げ出した小心者でもりました。 人生最大の過ち、イエスの最も近くにいたのにイエスを知らなかったという敗北を思い知らされたのだと思います。仲間によるイエスの復活証言とともに、肉体を超えた霊的なイエスにペトロも新たに出会ったのでしょう。目に見えないものは信じない、という頑固さも打ち砕かれました。
精霊が降りて、言語は違っても心が通じる、それはペトロだけに起こったことではなかったのですが、文字や言葉など知らなくても感じ取れる、人々の、魂の叫び、神の助けを求める祈りや、ぞれぞれの心を感じ取ることができるようになっていたのです。復活のイエスの聖霊に満たされた、その瞬間から、ペトロは自分の言葉でイエスについて語り、演説するまでになったのです。
「邪悪なこの時代から、みんなで救われましょう!」と呼びかけます。そこから起こった出来事は、財産の共有、無条件の助け合い、食べ物の分かち合いでした。ペトロも全く別人に生まれ変わっていたのです。いわば、原始イエスの仲間たちによる共産制が派生したのでしょう。
間違いに気づき、心の底から過ちを悔い、新たな人生が始まるとは、それまで依存していたもの、既得権を捨てることでもあり、古い服は脱ぎ去られ、脱皮が起こり、新たな服、人間関係、社会が生じるのでしょう。
“過ちは二度と繰り返しません”のヒロシマの誓いとともに始めた戦後だったはずでしたが、その「脱皮」は、決して多くの人に共有されていませんでした。沖縄の苦しみも、日米軍事協定の負担を押し付けたまま続いています。G7広島サミット、列強諸国のパワーバランスのための会議に無力感だけが募ります。日本基督教団は明らかに国体護持目的に始まった組織です。未だ脱皮もできず、生まれ変わることもできず左右に分裂したまま右往左往し、「伝道」を声高に繰り返すほど、全体は縮小しています。統一協会ではありませんが、一旦解散し、過ち、罪の総点検をしなければ、再出発はあり得ないと思います。
主イエスに従う日本における教会のあり方を考えるとき、国や藩から隠れながら信仰を続けた「隠れキリシタン」のあり方はとても参考になると思います。
神は万民の父母なる神であり、すべての人間は国籍人種関係なく父母なる神の子であり、互いを神の子として尊重し助け合うことを当たり前のつとめとすることが神の願いであることが記されています。更には「原罪」の概念、考え方がないのです。聖霊降臨日。私たちそれぞれの、新たな生まれ変わりを願い求めます。
先週の出来事
「二度と過ちは繰り返しません」の誓いが発せられた広島。そこで行われたG7広島サミット。これで戦争が終わりに近づく、とか、核兵器廃絶への一歩だ、とか、感じられる幸福な人は、この国の住民何%いるのでしょうか。この国も、戦中から脱皮できないままなのでしょう。列強諸国のパワーバランスのための会議という印象と無力感だけが募ります。
兵士の迷彩服を着て無防備なご近所の人を殺し、駆けつけた警官を射殺し警察に投降した事件。おそらく絶望の果てに抱いた“生きた証作り”、「死刑志望」の表れだと感じます。まさにこの社会の病みを実感させられる事件です。
本日は礼拝後、お茶会とともに、田中清史氏、せいさんが「ASEAN」についての講演をしてくださいます。ぜひぜひご参加ください。