20230604 聖霊降臨節第二主日礼拝「神についての議論」マタイ福音書5章

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本日の聖書箇所 マタイ福音書5章33〜37節

「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。誓ったことは主に果たせ』と言われている。しかし、私は言っておく。一切誓ってはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。

地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは偉大な王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪から生じるのだ。」

宣教要旨「神についての議論」

 このイエスの「誓ってはならない」「あなた方が口から出す言葉は、然り(はい)、否(いいえ)であるべき。それ以外の言葉は悪から出てくるのだ」に触れるたび、ドキッとします。キリスト教は「誓い」だらけです。洗礼式も結婚式もそうですし、礼拝で繰り返す信仰告白も神への「誓い」です。
キリスト教の礼拝は讃美歌の言葉もですが、更に、牧師の説教も言葉だらけです。それぞれの祈りも、言葉による「告白と誓い」が中心です。
 仏教や神道の礼拝では、お経も祝詞も素人には意味が分かりにくいため、じっとしている間はほとんど「黙想」になることが多いと思います。キリスト教の礼拝では、黙想はとても少ないわけです。
 セム語族アブラハムの信仰対象は、その名をやたらに口にしてはならない絶対神ヤーウェであり、ヨブやヨナのように反発したり逃げたりすることはありますが、基本は一方的に聞き従うしかない神です。
イエスは神をアッバ(親・ちゃん)と呼びましたが、親の子に対する指示や言葉に対しては、子は(はい)か(いいえ)しかない、とイエスは言っているように聞こえます。

 セム語族の活動範囲は、今日でいえばエジプト周辺、アラビア半島、トルコ、イラク、イラン周辺です。セム語は文字も右から左に書きます。ヘブライズム文化とも呼ばれます。
 ユダヤ教とキリスト教が生まれたのは、西アジアなのです。アジア圏の文化です。移動の民、遊牧民を中心とした信仰でした。今日でも、アジアと西欧世界には、特に自意識・自我のあり方について、大きな開き、隔たりがあると思います。西欧の定着を目指す文化における共通の言葉の重要性に対して、遊牧・移動の民にとっては「共通の言葉はない」のが前提の文化であり、それを前提としての饗応、助け合いが交流の仕方だと思います。

 キリスト教がグローバルな宗教として広まったのは、ヘレニズム文化とのジョイントや、ギリシャ語もラテン語もヘブライ語も使いこなせるパウロの伝道や、ヨハネの福音書があってこそなのでしょう。

 新約聖書は古代のギリシャ語で書かれています。黒海の北側、ウクライナやカザフスタンあたり、ユーラシア大陸ステップ(草原)ベルト地帯のインド・ヨーロッパ語族から始まり西側に移動したギリシャ人の言葉と文化です。文字は左から右に書きます。ヘレニズム文化と呼ばれます。これがキリスト教とともに今日の西欧文化の基盤となったわけです。
 この二つはルーツも考え方も自然観も信仰のあり方も全く異なります。
 イエスがこの世に現れた頃には、南ユダ国にもヘレニズム文化が押し寄せていました。アレクサンドロス大王がエジプトに建設したアレクサンドリアは、当時の国際都市であり、交易と学問と宗教の中心でした。紀元前にユダヤの知識人たちはここのヘレニズムの影響を受けていたようです。

「はじめにことばがあった。言葉は神とともにあった。ことばは神であった。」

信仰、神との関係や、神自体を言葉(ロゴス)で書き表し、聖なることば(ロゴス)で伝え広めます。ギリシャ文化ヘレニズムとユダヤのヘブライズムとの結合させたのが「ヨハネによる福音書」でした。

 その結果、多神教であったギリシャ文化に唯一神信仰を広めることに成功し、人間の意識が編み出す理性、合理、概念を生み出す言葉(ロゴス)とが並び立つことになったわけです。対等に並び立つことによって、神との契約、誓約・誓いが可能になったわけです。

 人間の意識から編み出されることば(ロゴス)と神のことばとが並び立つ、ダブルスタンダードが可能になることで、神の時(カイロス)と、地上の、人間の時・意識(クロノス)のダブルスタンダードも可能となりました。「神の国の到来はいつなのか」という、神の時を人間の時で測ることも可能になったわけです。

 「真理」は「神」の別名となり、哲学は神・真理を求める最高の学問となり、自然科学は神によって造られた被造世界を解明する学問、社会科学は神に祝福される社会を目指す学問、人文科学は神を賛美する精神活動、といった解釈で、学問はラテン語で書き表されるのが当然となりました。
 神と並び立つロゴスを手に入れることで、人間の意識は神からの「自由」を手に入れることができるようになり、神との関係も契約、誓約となった。ローマがキリスト教を公認し、国教となった後も、神との契約、皇帝との契約が並び立ち、キリスト教がローマ帝国の安定と繁栄に貢献しつつ教皇体制の安定を保持し続けることができたと言えます。

 イエスに議論を仕掛けてロゴスで論破しようとする学者たちも神殿の役人たちも多かったと思います。「神の御心とは何か」「サタンとは何か」「罪とは何か」「選民とは誰か」「選ばれる基準・選ばれない基準とは何か」「心は望んでいないのに肉体はなぜ罪を犯すのか」などの議論の矢がイエスに向かって放たれていたと思います。「ローマ皇帝への誓い」に匹敵する「神への誓い」を、信仰の証しとして持ち出すユダヤ人もいたでしょう。更には思弁的な善悪二元論に基づいて「教義」や「律法」についての議論で問い詰めてくる者も多かった。この頭でっかちな知識階級や神殿支配階級の、攻撃目的の議論に対するイエスの応答が「然り然り」「否否」でした。それが「神の子」による「親なる神」への応答だと言っていると感じます。

 キリスト教が伝えるキリスト、メシアとしてのイエスと、イエスが語った「神の国」、「神」についてのことばとの間には、開きがあります。それはヘブライズムとヘレニズムの開きであり、ギリシャ語で語られる「カイロス」(世の時)と「クロノス(神との時)」の開きなのでしょう。
 
キリスト教がその両方から成り立っていることを理解しながら、イエスの言葉を新たに聴き直していきたいと願います。

 

先週の出来事

民主主義思想には、個人の命の方が国よりも重いという思想があったはずです。今回の入管法「改正」は、国の迫害を逃れてきた人を、国同士の利害を優先し、迫害する国へ強制送還しやすくするものだと思います。

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