20230709 東淀川教会礼拝 宣教要旨「サマリア人こそ信仰の手本」ルカ福音書10章

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本日の聖書箇所

マタイによる福音書3章 09節
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

ルカによる福音書10章 29-37節

しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。 
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追い剝ぎに襲われた。追い剝ぎたちはその人の服を剝ぎ取り、殴りつけ、瀕死の状態にして逃げ去った。 
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。 
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。 
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、 
近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 
そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 
この三人の中で、誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 
律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

ヨハネによる福音書4章 7-9節

サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 
弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 
すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際していなかったからである。

ルカによる福音書9章 51-53節

天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された。

それで、先に使いの者たちをお遣わしになった。彼らは出かけて行って、イエスのために準備を整えようと、サマリア人の村に入った。 
しかし、サマリア人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムに向かって進んでおられたからである。

アブラハムはカナン到着後,最初の祭壇をこの付近(ゲリジム山近く)に築いた(創12:7).

宣教要旨 サマリア人こそ信仰の見本

 サマリア人について語るときは、背景にある北イスラエル王国、イスラエル10部族を抜きに語れません。サウル、ダビデ、ソロモンなどの王による支配が終わった後、南ユダ王国と北イスラエル王国は分裂し、200年程で、北イスラエル王国は滅ぼされますが、12部族の仲間であったはずのユダ王国は助けようとしなかった。この10部族がどこに消えたのかについて諸説ありますが、パレスチナに残った10部族の末裔がサマリア人、という理解で、あまり間違っていないと思います。

 南ユダ王国はバビロンに滅ぼされ40年間ほど捕囚・奴隷状態の後、解放されてイスラエル神殿付近に帰還を許されたのですが、自尊感情・プライドもズタズタだったユダヤの人々の民族意識を高めるため、当時の預言者達(エズラ・ネヘミヤ)は、アブラハムの子孫、という血統意識、選ばれた民という選民思考を鼓舞しました。このことが、別れた仲間である北イスラエル民族が他国の人々と混血させられたことをもって、同じユダヤ人としては認められない、という血統差別を生み出しました。

 結果、サマリヤ人はゲリジム山に彼らの神殿を建てた(前4―5世紀頃).その結果,ゲリジム山はサマリヤ人の宗教の中心地となり,今日でも毎年過越の祭りをその場所で守っています.

イエスの、血統意識、選民意識に対する批判は痛烈です。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」との発言は、マタイ福音書のみですが、この一言で、アブラハムの子孫であることに大きな誇りを持っていたユダヤ人達全てを敵に回してしまったことになります。逆にサマリアの人々はおそらく拍手喝采を送ったと思われます。

そもそも、モーセの時代から、一族から結婚相手を選びなさい、などの律法はなく、基本は“産めよ増えよ地に満ちよ”です。多くのさまざまな文化と共に血が混じることを推奨してきた遊牧民の歴史がありました。

 イエス達が最後のエルサレム入場のためのデモを行おうとした時、サマリア人達は歓迎しなかったとあります。「エルサレム神殿が唯一の神殿ではないだろう。イエス達一行を付け狙っている人々がいるエルサレムではなく、サマリアの、ゲリジム山の神殿で
活動してほしい、という願いが強かったのでしょう。

 イエスのメッセージは、サマリア人の側から、エルサレム神殿のユダヤ教の過ち、神に対する傲慢さを告発しているのであり、不可触民とみなされているサマリア人の方が、信仰者などという高邁な理念よりも、隣人に対する人間としての優しさを失ってはいない、というメッセージと思われます。

日本人が血統で血を騒がせたのは、海外派兵を始めた明治政府からでしょう。他国の人々を軍事力で支配し、住民達を「雑草」「虫ケラ」扱いしてきた“後ろめたさ”はそう簡単に拭いされることはできません。昨今のヘイトスピーチを見ていると、あの「後ろめたさ」が湧き上がってきており、かといって、「雑草・虫ケラ」扱いしてきた歴史と直面化し、人間として謝ることもできないままの、宙ぶらりん状態の日本人の姿があるのでしょう。

この宙ぶらりん状態は、海外派兵のための天皇翼賛体制として集められ、今日もこの体制を続けている日本基督教団の宙ぶらりん状態と同じです。おそらく、最も大きなプロテスタントの教会群としてこれまで続いてきたし、それなりの、短いなりに歴史もあるのだから組織は温存すればいいし、過去の、「差別者」「加害者」としての歴史は掘り返さなくっても、組織は“依らば大樹”で、人間として謝らなくっても、「信仰」の繋がりだけでエエやん、という「宙ぶらりん」です。日本基督教団のサマリア差別問題?

 

  • 先週の出来事
    原発の汚染水を海洋投棄することについてIAEAがお墨付きを与えた、とか、韓国政府が海洋投棄を認めた、とか、『みんなエエゆうとりまっせ』宣伝が激しい。こんな宣伝を繰り返す背景には、津波による震災、原発事故による甚大な被害、政府の原子力政策に翻弄された海の漁師達、海や魚を守ろうとしている人々の、激しい抵抗運動があるからなのだろう。訳のわからん安全神話、数字合わせ、保障などよりも、海を・魚を守らなければ、という直感が働いているのだろう。この「直感」に連帯したい。

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